犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「いじめ」を定義することはできない

2007-11-17 15:08:04 | 言語・論理・構造
文部科学省は「いじめ」の定義について、長らく「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」と定義してきた。頭の良い方々が一言一句に気を使って、厳密に定義した結果であることはわかる。しかしながら、現に溺れている人を前にして浮き輪を投げず、会議室に集まって人命救助の講習会を開いているようなバカバカしさは消えない。文部科学省はようやく「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」と方針に転換し、教育再生会議は「いじめられた本人がいじめだと思えば、それはいじめである」と述べるようになった。

本人がいじめだと思えばいじめになる、これは言語哲学からはごく当たり前のことである。「それ」を動物だと思えば動物になり、犬だと思えば犬になり、コリーだと思えばコリーになる。福田内閣を支持すると思えば支持することになり、支持しないと思えば支持しないことになる。およそ言語が現れるのは、この方法以外にはない。他の方法はあり得ない。従って、「いじめだと思えばいじめになる」という命題はこの上なく正しい。ところが、これを新たな定義として掲げてしまうと、これまた面倒なことになる。このような定義はあまりに広すぎる、不明確だといって、いじめか否かの境界線が争われることになる。そして、大人がそのように争っている間に、多くの子どもがいじめられて自殺する。これを机上の空論という。

「一方的でないからいじめにあたらない」、「継続的でないからいじめにあたらない」といった従来の争いのバカバカしさは明確である。しかし、この反省の上に立って「言葉の問題に捕らわれて現実を見ていない」と言ってしまうと、人間は再び同じ間違いを犯すことになる。人間が捕らわれていた言葉の問題とは、何かを言語によって定義しようという欲望であり、その何かは言語によって定義できるという根拠のない盲信である。この盲信が閉じられた複言語ゲームを作り出し、その体系の維持を自己目的化させることになる。子どもの自殺という桁違いの現実に太刀打ちできるはずもない。「本人がいじめだと思えばいじめになる」という新たな定義は、その本人が自殺した場合には、端的に使い物にならない。真剣に議論した結果が、「自殺するときには詳細な遺書を書いてから死にましょう」といったしょうもない話になってしまう。

形而上的であると揶揄されがちな言語哲学であるが、「いじめはあったのかなかったのか」といった形而上の争いに比べれば、これほど現実的な思想もない。客観的に唯一的ないじめの存否という過去の動かぬ事実がある、そしてそれは証拠によって認定できるものである、このようなカテゴリーが使い物になっていないのは明らかである。死亡した本人は「死人に口なし」、加害者は「記憶にありません」、遺族はますます怒りを募らせる、この構造は刑事裁判と同じである。文部科学省が「いじめ」の定義を変えたところ、いじめは2万件から12万件に増えたらしい。この「増えた」という表現が正当なものとして成立していること、これは言語哲学が机上の空論ではなく、何よりも言語は現実の別名であることを示している。