犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

日弁連交通事故相談センター東京支部編 『民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準』

2007-11-04 17:18:19 | 読書感想文
現代社会では交通事故が日常茶飯事である。それゆえに、事後処理の技術的な理論は細分化し、その煩雑さが被害者の2次的被害を人為的に生み出している。ただでさえ複雑でわかりにくい計算式が、事故直後の異常な精神状態に置かれた人間に容易に理解できるわけがない。かくして、当の加害者と被害者はそっちのけで、代理人弁護士と保険屋との交渉ばかりが主流となる。これも言語ゲームの階層性の例証である。部分的言語ゲームは自らを自己目的化し、その存在確認のためにさらなる細分化を指向する。議論のスケールは小さくなり、当事者から見れば疎外感が残り、「木を見て森を見ず」との印象を残すことになる。

弁護士や保険会社の社員は誰しも知っており、かつそれ以外の国民はほとんど知らない種類の本として、「赤い本・青い本」というものがある。いずれも日弁連の交通事故相談センターの編集によるものであり、赤い本の正式名称は『民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準』、青い本の正式名称は『交通事故損害額算定基準』という。最初から最後まで計算式や数字の一覧表が並んでいて、法律というよりも数学や経済学の本に近く、完全に好き嫌いが分かれる種類のものである。ただ、少なくとも弁護士や保険会社は、この本を使いこなせなければ仕事にならない。

交通事故に伴う損害賠償のうち、「積極損害」の項目は、専門知識がなくても何とか計算できる。例えば、ケガの場合には入院費・治療費・通院費などであり、死亡事故の場合には葬儀費用・遺体搬送料などである。この金額の算出においては、特に難しい計算式は必要ない。本来ならば加害者が支払うべきものを被害者が立て替えているという話であり、領収書を1枚1枚集めて、それを粛々と足していけばよい。ただ、残酷な運命、取り返しのつかない現実、決して戻らない時間という哲学的難問に直面しつつ、心身ともに疲れ果てた状態に置かれながら、決められた定型の書式に合わせて領収書を1枚1枚紙に貼ったり一覧表を作ったりすることは、通常の人間にはかなり苦しい作業である。ここで代理人弁護士の需要が生じることになる。すなわち、被害者としてはまた多額の費用がかかる。

技術の発達による専門知識の増加は、専門用語による細分化を生み、新たな職業、新たな頭脳労働の需要を生んだ。そして、その高い専門性が高い収入に結び付くと、その構造はますます強固になる。これが言語ゲームの階層性の負の面である。哲学的な問題を含んでいる事項についても、専門用語はその問題を問題として捉えることができない。そして、その根本は置き去りにされるどころか、非現実的で役に立たない問題設定であるとして見下される。しかしながら、どんな事故であっても、それぞれが世界でたった1つの事故であること、それに遭った本人には世界でたった1つの苦しみがあること、この現実は絶対に消しようがない。現実を非現実的であると信じ込み、非現実を現実であると信じ込んでいるならば、人間は専門知識によって賢くなっているのか馬鹿になっているのかよくわからない。

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