犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

言語以前の思考

2007-11-01 22:02:45 | 言語・論理・構造
法律家は、言葉を使いこなすプロであるとして尊敬を集め、自らもそのような自負を持っている。このような状態は、ウィトゲンシュタインを源流とする言語哲学がオリジナルから遠く離れてしまったことを示している。多くの人間は、言葉は個人のものであり、言葉を話すのは自分であると思っている。しかしながら、もしも言葉を話すのが自分であったならば、他人の話す言葉との間において会話が成立するわけがない。語の意味はあらかじめ理解されていなければならず、自他の区別よりも先に存在していなければならない。ウィトゲンシュタインは、これを私的言語の不可能性と述べ、人間は言語ゲームの駒であると述べる。

言葉は個人の発明ではなく、個人の所有でもない。哲学の言語は、そのような永劫不可解に直面した人間が、その言語を言語で語るという苦しい自己言及のパラドックスそのものである。絶句することすら、「絶句する」と表現しなければならない。沈黙すら、「・・・」と表現しなければならない。法律家は、言葉を使いこなすプロであるとされるのは、これらの言語に関する問題をすべて底上げした先の話である。そこでは、条文や判決文が言語でありつつ、それが言語であることが忘れられなければならない。底上げしていない部分の言語は、哲学や文学、宗教によってのみ語られずに示されるものであり、法律学によっては語ることができず、示されることもできない。

このような構造である限り、犯罪被害者の語る言葉は、そもそも法律の条文によっては捉えることができない。言葉によって語る行為とは、言葉によって語りえないものを語ろうとすることであり、そこに語られていないものをこそ聞く側は読み取らねばならないはずである。犯罪被害者の言葉が、言葉によって語りえないものを語ろうとする言葉である限り、聞く側の能動性が要求される。それは、人間が一人の人間として思考することであって、法律家という肩書きで思考することではない。人間が言葉を語るということは、人間の宿命として、思考を言語で表現することのパラドックスを共有することである。これに対して、明確性と安定性、厳密な定義を要求する法律言語は、一人の人間としての思考を殺すことによってのみ語りうる。

人間が思考することは、必然的に言語以前のことを思考することにならざるを得ない。これがウィトゲンシュタインの沈黙である。そうであれば、法律家が言葉を使いこなすプロであることは、ウィトゲンシュタインが述べるところの思考を放棄していることに他ならない。確かに法律家は、条文を駆使して使いこなすことができる。条文や判決文の行間は見事に読める。なぜならば、それはイデオロギーと主義主張の妥協の産物だからである。これに対して、法律家は犯罪被害者の言葉の行間が読めない。すべてを法律問題として変換する癖がついてしまっているからである。従って、被害者の意見は、「法律的に意味がない」と言って切り捨てられる。これが被害者の見落としの構造である。