犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

違和感を手放さない

2007-11-23 18:11:25 | 言語・論理・構造
次のような文をよく目にする。「犯罪被害者はこれまで長い間にわたって社会から孤立し、極めて深刻な状況におかれてきた。これまで我が国の刑事司法手続の中では、犯罪被害者は1つの証拠方法としてしか位置づけられていなかった。しかし、犯罪被害者が刑事訴訟手続に参加できる制度の確立を強く求める声が挙げられるようになり、政府もこれを受けて包括的な犯罪被害者支援策の検討をする方針を明らかにした。今後は、全国に犯罪被害者のための相談窓口が設置されるよう最大限の努力をするとともに、より充実したきめの細かい犯罪被害者支援をしなければならない。また、社会全体において、犯罪被害者への理解を深めなければならない。但し、被害者遺族が法廷で遺影を掲げることは認められない」。

現在の「犯罪被害者をめぐる問題」の問題点を大げさに指摘するならば、さしずめ上記のようになる。多くの人にとって逆らえない、しかもそれ自体としては非の打ちどころのない美辞麗句が並ぶが、どこか何となく物足りない。何となく違和感がある。そして、ある瞬間に、その違和感が決定的となる。この決定的な違和感、直観的に襲ってくる割り切れない気持ち、これを言語化して閉じ込めておくことが何よりのポイントである。「何が問題なのか」という問題、その「問題の問題」の手がかりがここに隠されているからである。ここを見落とせば、何だか誤魔化されたようなもどかしさを抱えつつ、その周辺をいつまでも回り続けることになる。

犯罪被害者は保護される客体ではなく、支援される客体でもなく、それ自体独立した主体である。これが、犯罪被害者が刑事訴訟手続に参加できないことのそもそもの違和感の原因である。この違和感の言語化は、従来の刑事訴訟手続の構造と衝突し、構造と構造の主導権争いとなる。構造主義的なカテゴリーとは、言語は恣意的な差異の体系であるとの枠組みであり、言語の差異の体系によって世界の事物が分節され共通の世界観が作られるとする範疇である。ソシュールの解明した言語構造が構造主義の起点となったのは当然のことである。構造は言語によって作られる。そして、言語は違和感によって作られる。

「犯罪被害者は肉体的・精神的・経済的な苦痛を負っており、社会全体で最大限の支援をしなければならない。但し、被害者遺族が法廷で遺影を掲げることは認められない」。ここで違和感を言語化しなければ、犯罪被害者を主体とする構造はあっという間に消え去り、犯罪被害者を客体として支援し、救済する構造が支配的となる。ここで構造なるものを実体化して、言語の使用から離れては台無しである。被害者遺族が法廷で遺影を掲げたいと思うこと、これは直観であって、その直観が起こる瞬間には理由などない。「遺影を掲げることが真の被害者保護になるのでしょうか」、「遺影を掲げればかえって肉体的・精神的・経済的な苦痛を増幅させるだけではないのでしょうか」、このような文法に捕まってしまい、被害者遺族がそれに応じて反論してしまえば、構造は完全に被害者の側から去ってゆく。