犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

無限大の宇宙 - 埴谷雄高『死霊』展 (県立神奈川近代文学館)

2007-11-24 18:48:32 | その他
存在の謎に直面すれば、存在することしかできない人間は、「ない」ものを「作り出す」逆説から逃れられない。我々が考えるということは、事物の根源と究極に向かうものであり、考えはすべて思考実験となるはずである。埴谷雄高の用語に従えば、「自同律の不快」とは全存在の存在原理である。存在は存在自体に対して「自同律の不快」を味わっており、宇宙の絶えざる変幻の内的動因であり、内的原理である。現代の科学主義の下では、なぜ「無限大の宇宙」と「死霊」とが同義なのか、当然ながら理解されにくい。死霊といえば、現在では多くの場合には死者の霊魂、死者の怨霊のことであり、慰霊祭をしてナンボの話である。

『死霊』の内容については、私の知能ではほとんど歯が立たず、「ぷふい」の実物を見て月並みに感動しているといったレベルである。ただ、激しい訂正や挿入の後が残る自筆原稿の束には、冗談ではなく、本当に吸い込まれる感じがあった。もちろん、歴史的な史料として書き上がったものを後世から見物する方法、すなわち平成19年から見る方法によるのではない。原稿用紙が半分まで埋まっており、半分は余白で残っているその瞬間に時間を止めて見る方法による。同じく、一度書いた原稿につき、挿入句を加え、表現を改め、大胆に一節を削除している瞬間、その万年筆のインクが乾かない瞬間に時間を止めて見る方法による。冗談ではなく、現在が平成19年であることを忘れる。

自分が書いた原稿用紙を何十回も何百回も読み返して、その都度訂正を加えていれば、訂正前と訂正後の過程がそのままわかる。なぜ自分は最初はそのように書いたのか、なぜその後に訂正したのか、訂正した時の自分の意志までがよみがえって来る。1回目はこのように書いた、2回目はこのように訂正した、そして3回目に読み返してみる。すると、最初の執筆時の自分の意志、および2回目の訂正時の自分の意志とが重層的に浮かび上がってくる。自分の筆の運びがそのままわかり、そこでまた新たな言葉が生まれる。何十回、何百回と繰り返せば、この重層は無限大の宇宙となる。埴谷雄高の字はお世辞にも上手くないが、考えがそのまま乗り移っている、もしくは考えのほうが先に行ってしまって後から追いついているといったような字であった。筆順などどうでもいい、本人にだけ読めればいいといった原稿もあり、編集者は相当苦労したと思われる。

パソコンで執筆する現代の作家においては、今後はこのような展覧会は不可能である。誰が打っても同じパソコンの字では味気がないという以上に、自筆の文字でなければ考えが乗り移らず、生まれるべき言葉が生まれていないということである。ここには、計算できないほどの損失がありそうである。言葉が生まれ、また消えてゆく速度は、光速や音速よりも速い。ペンで原稿用紙に向かうときの誤字脱字と、パソコンのキーボードでのタイプミスとでは、言葉の逃げ方が違う。言葉を書き留める瞬間とは、ほんの一瞬の真剣勝負であり、逃がした言葉は永遠に戻らない。なかなか目的の漢字に変換されないイライラは致命的である。「死霊」を出そうと思うと「司令」になり、「懐疑」を出そうと思うと「会議」になる。「捨象」は「車掌」になり、「照射」は「商社」になる。これを戻って直している間に、言葉はどんどん逃げてしまうだろう。