犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

渡辺洋三著 『法を学ぶ』

2007-11-02 21:19:20 | 読書感想文
被害者が裁判を傍聴した際の体験談としては、専門用語ばかりで何をやっているのかわからない、まるで別の世界のようである、疎外されているようだ、といったものが非常に多い。裁判官を初めとする法律家も同じ人間であるはずなのに、どうにも人間が話しているように聞こえない。被害者遺族が「遺影を持ち込みたい」という意思を表明したとなれば、あっという間に「公平な裁判」「法廷の秩序」といった概念が飛び出し、近代刑法の大原則まで登場して大騒ぎになり、純粋な死者への思いは跡形もなく変形される。

なぜこのようなギャップが生じているのか。これは、現在の法曹界の中心として活躍している人達の常識を見てみればわかる。そして、その思想のバックボーンを見てみればわかる。渡辺氏の『法を学ぶ』は、かつては法学部生の最適の入門書と言われており、多くの法律家が一度は読んだことがある本である。法律の世界に足を踏み入れた人が最初のスタートにおいてこの本を読めば、世界がそのように見えてしまう。次の引用部分では人間の生死が扱われているが、どうにも生身の人間の姿が見えない。殺人事件や自動車運転過失致死事件の遺族が裁判所に傍聴に来て、人間の生死にかかわる問いの答えを求めようとしても、多くの場合には期待が裏切られる理由がよくわかる。


p.7~ 変形して抜粋

民法第1条の「私権の享有は出生に始まる」という条文で、「出生」とは論理的にどういう意味であるか。民法の場合には、「出生」によって人間としての権利能力を有し、たとえば「出生」の瞬間に、相続により何百万円の財産を取得することができる。「全部露出説」をとれば、胎児が母体から離れた瞬間には生きていたが、そのあとにすぐ死んだ場合、論理的にはその子は一度生まれて財産を取得したうえで、あらためてその子の死亡により新しく相続が開始することになる。これに反し、胎児が母体から一部出たときにはまだ生きていても、母体から全部出た瞬間に死んでいれば(死産)、そもそも初めから子はいなかったのと同じことになり、相続の問題も生じないのである。このように一度生まれてすぐ死んだのか、それとも死んだ状態で生まれたのかによって、相続の権利関係は全く異なった結果となる。

p.11~ 変形して抜粋

法律学を学ぶ者には、頭の中で、こういう場合にはどうする、ああいう場合にはどうするという論理的空想力ともいうべき素質が必要であるし、またそういう素質を身に付けられるような修練を積まなければならない。その意味では、法律学の勉強は、一種の知的パズルといってもよい。数学や論理学の好きな人は法律学もまた好きになれる素質があるのではなかろうか。逆に論理的な抽象的思考能力が不得手な人には法律学は向いていないのではなかろうか。論理的思考能力があり、抽象的論理の展開が面白くなり、パズルを解いたときのような爽快さを味わって法の論理学にのめりこんでゆくタイプの学生には、法律学が向いているのである。