犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』

2007-11-12 10:24:59 | 読書感想文
身内を犯罪で亡くしたことのない人にとって、この本の読み方は、大きく分けて2つある。1つは、そのまま字面を追う方法である。「これが有希と交わす最期の言葉になるとは、ゆめゆめ思いもしませんでした」。「なぜ有希が逝かなければならなかったのか? なぜ忽然と目の前から消えてしまったのか?」。このような文字を追っていけば、確かに事実が重いことはわかり、遺族の悲しみも想像できる。しかし、自らにそのような経験がない人にとってはどこまでも他人事であって、3人称の死である。これは、裁判で遺族の意見陳述を聞く裁判官も同様である。「遺族の処罰感情は強いが、被告人は深く反省している」といった他人事のような判決文は、このような物事の捉え方の延長線上にある。

もう1つの読み方は、被害者の名前の「有希」のところに、自分の肉親の名を代入して読む方法である(もちろん周りの条件も合うように変える)。こうすると、3人称の死は一気に2人称の死へと姿を変え、言葉は一気に動き出す。「呼吸していない○○を目にしても、○○(息子、娘、父、母など)に死が訪れているなどとは、どうしても認めたくありませんでした」。「『○○起きなさい』と何度肩を抱いてもゆらしても、手や足が動くわけでもなく、胸が動くわけでもありません」。このようにして読むと、同じ文字が全く違って見える。言語道断の緊張感をもって、読む者を捕らえる。これは驚くべき変化である。

「○○の横たわる身体は、もう二度と動くこともなく、呼吸をすることもない」。「いつも笑顔だった○○が消えてしまった部屋も、以前と変わらない空気や、臭いがします」。「最期の望みとして、ほんの数時間でも良いから、温かく脈打つ手を握り締め、○○の名前を呼びながら『さよなら』を言いたかった」。自分の肉親の名を代入するだけで、血がカッと熱くなり、頭に血が上る。映像にはない、文字の持つ力である。「考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わることだ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう」(小林秀雄著『考えるヒント』より)。

人間の生死の問題を忘れて先に進み、公訴事実の証拠による認定だけを問題とする実証科学は、2人称の死を語る言葉に耐えられない。それはすべての死を3人称の死に変形し、それが遺族に対して必然的に人為的な二次的被害をもたらす。刑事訴訟法1条には「真実発見」が掲げられているが、この目的を達するためには、被告人の生い立ちやそれまでの人生は非常に重要である。それは量刑の選択に深く関わる真実だからである。これに対して、被害者の生い立ちや失われた人生は、刑事訴訟法の真実とは全く関係がない。

人権思想に基づく近代刑法の大原則は、万学の女王である哲学を捨てた。そして、人間の生死を「業務上過失傷害罪」「業務上過失致死罪」という言語に変形し、これを「詐欺罪」「わいせつ物販売目的所持罪」「大麻取締法違反」などの言語と同一の直線上に並べた。これはこれで法治国家の1つの便宜ではあるものの、人間の生死を扱うにはいかにも力不足である。交通事故死は、「安楽死」「終末医療」「がんの告知」「闘病記」「老親の介護」「過労死」「自殺」「ペットロス症候群」などの言語と同一の直線上に並べられるべき事項である。交通事故死の真実は、刑事訴訟法1条の「真実発見」では発見できない。遺族によって絞り出される言葉は、無機質な判決文よりも真実を捉えている。これも当然の話である。