犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

徳生祐著 『赤涙の果て』

2007-11-08 14:53:40 | 読書感想文
YAHOOのブログ検索で、「犯罪被害者」のキーワードで検索すると、だいたい上位6位までを占めているのが徳生祐氏のブログである(このブログはいつも7番目に表示される)。金銭欲、物欲、自己顕示欲、性欲、食欲の話題ばかりの情報化社会にあって、同氏のように答えの見えない問いに向かって真摯に苦闘している人物がいることは、なかなか頼もしいことである。それだけに、自費出版の文芸社による本書の取り扱いは非常にお粗末であり、自費出版トラブルが絶えないことの原因も見えてくる。

徳生氏がブログの中で苛立ちを込めて述べているように、このようなテーマの本は商業出版のベースに乗らない。恋愛小説、自己啓発、占い、ビジネスに関する軽い本がベストセラーになる中で、犯罪被害を扱った小説はまず売れない。哲学の本は、哲学の形を装った人生論や自己啓発、もしくは帰納法と演繹法を上手く使ってビジネスに役立てるといった本でなければ売れない。法律の本も、得する法律の知識や暮らしのトラブル解決に役立つものでなければ売れない。さらには犯罪を扱った小説も、推理小説やミステリーでなければ売れない。この点において、同氏の本はどれにも入っていない。犯罪被害に対する世論の関心は高い水準を保ち続けているが、このような本を買って読もうという人々の層は、非常に限られている。

一見して答えの見えない哲学的な問いは、その内容そのものよりも、それを表現す方法をめぐって苦しまれる。徳生氏はその中でも小説という方法を取っており、その試みの方向は一応成功しているように思われる。苦しみの中から言語を絞り出している様子は、わかる人にはわかるだろう。しかしながら、この情報化社会において反響を起こすことは並大抵のことではない。同氏はブログの中で、「小さな反響も無く、現実の厳しさを味わっています」、「私のこの国に対する思いをぶつけています。現実は、ほとんどぶつかっていないようです。無名ということがひしひしと私の体にのしかかってきます」などと述べているが、実際にそのとおりであるとしか言いようがない。

「残虐な事件をなくすにはどうすればよいのか」、「被害者や遺族に仇討ちの権利を認めるべきか」、この手の質問は答えが出ない。徳生氏はこの難問に正面から挑んでいるが、この本の初版から2年、未だ答えが出ていないようである。ここで、問いの裏側に回れば、事態は一気に動き出す。「残虐な事件をなくすにはどうすればよいのか」、「被害者や遺族に仇討ちの権利を認めるべきか」、この答えは簡単すぎる。簡単すぎる解をそれでも維持できない点が難しいのであって、この手の議論があった場合、簡単すぎる解に気付いているかいないかによって話はずいぶんと変わってくる。同氏がこのスタートラインに立つことにより、それが第2弾の小説として結実し、反響を起こすことを大いに期待する。

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