犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

パンを1個盗んで懲役10年

2007-11-13 21:47:44 | 言語・論理・構造
窃盗罪(刑法235条)の法定刑は、懲役1ヶ月以上10年以下である。それでは、コンビニでパン1個を万引きした犯人に対し、懲役10年の刑を言い渡すことはできるか。答えは「できる」である。懲役11年を言い渡せば完全に違法であり(併合罪加重も累犯加重もない場合)、法令適用の誤りが存在する(刑事訴訟法380条)。これに対し、懲役10年の判決ならば合法であり、量刑不当として争われるにすぎない(同法381条)。現行法の条文は、起訴猶予・微罪処分相当の万引きに対して、論理的に裁判官が懲役10年の刑を言い渡すことを防げない形になっている。

それでは、現実にこのような判決を防いでいるものは何か。それは、条文にない量刑相場である。罪刑法定主義の要請としては罪刑の均衡、予測可能性の確保などが求められ、現に実際に問題とされているのは、厳罰化の傾向や国民世論の反映に対する賛否両論である。しかしながら、そもそも現在の法律は、論理的に裁判官が軽い万引き犯に対して懲役10年の刑を言い渡すことを認める形になっている。一時期、刑事政策学で刑の計量化が試みられたこともあったが、そんなものはもとより不可能であった。このような法律の条文の弱点は、条文に書かれていない量刑相場の確立によって、表立っては問題とならないようにされている。

しかし、そもそも相場とは、市場で取引されるその時々の商品の値段のことである。転じて、ある特定の時代、特定の場所における世間一般の考え方や評価のことであり、時代や場所によっていくらでも変わる種類のものを指す。条文の一言一句まで細かく解釈しなければ気が済まない法律家も、この点については最後の詰めが甘い。なぜ法律では懲役10年の刑を言い渡すことが認められているのに、これを言い渡してはいけないのか、刑法の実証性からすればお手上げである。正義、公平、常識などと言いたくなるが、それでは客観性の建前が崩れてしまう。誰しも限界がわかっているため、触れないようにしている事項である。実定法学者がここを掘り下げると、自分の足元が見事に崩れてしまう。

実証科学として発展した刑法学は、膨大な判例の集積によって、安定した量刑相場を確立してきた。しかし、それはすべて量の集積であって、質を変えることはできていない。刑法の条文上、軽い万引き犯に対して懲役10年を言い渡せるという事実は少しも動いていないからである。結局、量刑相場を支えている客観的な原因など何もなく、にもかかわらず量刑相場が支えられているのは、個々の裁判官に委ねられていると言うしかない。それは、崇高な職務を担う者の高い見識による職業倫理の実現である。言い換えれば、「変な裁判官」として叩かれてエリートコースから外れ、出世ができなくなることへの恐れである。