犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

恥ずかしい

2007-11-19 13:40:28 | 言語・論理・構造
広く犯罪被害の問題を考えるとなると、アダルトサイトに関連するワンクリック詐欺や、フィッシング詐欺などの問題なども含まれてくる。これらはれっきとした犯罪であり、詐欺罪(刑法246条1項)や恐喝罪(刑法249条1項)に該当する。もちろん、このような問題には哲学的な深さはない。被害に遭わないように、粛々と防止策と対応策を進めるのみである。ただ、このような問題であっても、万学の祖である哲学は、心理学や犯罪学よりもより深い洞察を与えることが可能である。

言語こそが世界を構成する、この恐るべき言語論的転回を経てみれば、言葉を話す人間の観念が実体のないものを実体化させている状況に気付く。「恥ずかしい」という形容詞、「恥」や「恥ずかしさ」という抽象名詞、これは典型的である。人間以外の動物には、かような感情はない。人間は、恥ずかしいと思えば恥ずかしくなるし、恥ずかしいと思わなければ恥ずかしくならない。客観的な恥ずかしさや、客観的な恥というものはない。エロ本をレジに持ってゆく人間は恥ずかしそうにしているが、その本の中に登場する人達は誰も恥ずかしそうにしていない。

出会い系サイト・アダルトサイトに伴うワンクリック詐欺・フィッシング詐欺などは、近年になって増えてきた形態である。しかしながら、このような人間心理を巧妙に突いた犯罪は、昔から多く存在していた。ぼったくり風俗店や、ダイヤルQ2などである。そこでは、そのようなお店に行ってしまった、そのような電話を聞いてしまったという恥の概念が利用されている。ワンクリック詐欺やフィッシング詐欺も同じである。自分はそのような画面を見ようとしていた、その恥ずかしさと後ろめたさが知人に相談しにくいという心理状態を引き起こし、お金を振り込むしかないという結論に至ってしまう。

しかし、そもそも出会い系サイトを運営している人間や、アダルトサイトを運営している人間のほうは恥ずかしくないのか。もしも客観的な恥ずかしさというものが存在しているのであれば、それを見てしまった人間よりも、最初に作った人間のほうが数十倍も恥ずかしいはずである。ところが、その人間に恥の感情を呼び起こさせるサイトを運営している側の人間は、少しも恥ずかしそうにしていない。ここにも恐るべき言語論的転回が現れている。恥ずかしいと思ってしまった者のみ、自らの羞恥心に苦しむことになる。

自由と平等を推し進めれば、社会規範は崩れ、モラルハザードが起こり、人間から恥意識が消失する。そこでは、恥知らずの人間が大きな顔をし、恥を知る人間が苦しむ。これは端的な事実である。ワンクリック詐欺やフィッシング詐欺に引っかからないための小手先の対応策も、確かに必要ではある。しかし、このような対応策ばかりを進めると、「恥」や「恥ずかしさ」を巡る言語論的転回はますます見えにくくなる。そして、恥知らずの人間はますます新たな犯罪を思いつくようになり、恥を知る人間が被害に遭い続ける。