犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

恥ずかしい

2007-11-19 13:40:28 | 言語・論理・構造
広く犯罪被害の問題を考えるとなると、アダルトサイトに関連するワンクリック詐欺や、フィッシング詐欺などの問題なども含まれてくる。これらはれっきとした犯罪であり、詐欺罪(刑法246条1項)や恐喝罪(刑法249条1項)に該当する。もちろん、このような問題には哲学的な深さはない。被害に遭わないように、粛々と防止策と対応策を進めるのみである。ただ、このような問題であっても、万学の祖である哲学は、心理学や犯罪学よりもより深い洞察を与えることが可能である。

言語こそが世界を構成する、この恐るべき言語論的転回を経てみれば、言葉を話す人間の観念が実体のないものを実体化させている状況に気付く。「恥ずかしい」という形容詞、「恥」や「恥ずかしさ」という抽象名詞、これは典型的である。人間以外の動物には、かような感情はない。人間は、恥ずかしいと思えば恥ずかしくなるし、恥ずかしいと思わなければ恥ずかしくならない。客観的な恥ずかしさや、客観的な恥というものはない。エロ本をレジに持ってゆく人間は恥ずかしそうにしているが、その本の中に登場する人達は誰も恥ずかしそうにしていない。

出会い系サイト・アダルトサイトに伴うワンクリック詐欺・フィッシング詐欺などは、近年になって増えてきた形態である。しかしながら、このような人間心理を巧妙に突いた犯罪は、昔から多く存在していた。ぼったくり風俗店や、ダイヤルQ2などである。そこでは、そのようなお店に行ってしまった、そのような電話を聞いてしまったという恥の概念が利用されている。ワンクリック詐欺やフィッシング詐欺も同じである。自分はそのような画面を見ようとしていた、その恥ずかしさと後ろめたさが知人に相談しにくいという心理状態を引き起こし、お金を振り込むしかないという結論に至ってしまう。

しかし、そもそも出会い系サイトを運営している人間や、アダルトサイトを運営している人間のほうは恥ずかしくないのか。もしも客観的な恥ずかしさというものが存在しているのであれば、それを見てしまった人間よりも、最初に作った人間のほうが数十倍も恥ずかしいはずである。ところが、その人間に恥の感情を呼び起こさせるサイトを運営している側の人間は、少しも恥ずかしそうにしていない。ここにも恐るべき言語論的転回が現れている。恥ずかしいと思ってしまった者のみ、自らの羞恥心に苦しむことになる。

自由と平等を推し進めれば、社会規範は崩れ、モラルハザードが起こり、人間から恥意識が消失する。そこでは、恥知らずの人間が大きな顔をし、恥を知る人間が苦しむ。これは端的な事実である。ワンクリック詐欺やフィッシング詐欺に引っかからないための小手先の対応策も、確かに必要ではある。しかし、このような対応策ばかりを進めると、「恥」や「恥ずかしさ」を巡る言語論的転回はますます見えにくくなる。そして、恥知らずの人間はますます新たな犯罪を思いつくようになり、恥を知る人間が被害に遭い続ける。

勢古浩爾著 『この俗物が!』

2007-11-18 18:37:55 | 読書感想文
オウム真理教の裁判など、数々の刑事裁判において繰り返される弁護団の主張は、国民の大多数の正義感と合致しない。これは、国民の一般常識と専門家の常識との乖離に端を発している。俗物の代表のような犯罪者の所業はもとより、その後の裁判における俗物根性全開の言い訳を見せつけられれば、その乖離はさらに増幅する。国民の常識・正義感・倫理観からすれば、近代裁判の鉄則と言われるものは、「なぜ簡単なことを難しく考えているんだ」「どうして普通に考えられないのか」といったものが多い。自己負罪拒否特権、無罪の推定、自白法則、違法収集証拠排除法則、疑わしきは被告人の利益にの原則など、専門家の常識は国民の非常識として表れることがほとんどである。表れてしまうのものは表れてしまうのだから、誤解でも不勉強でも何でもない。

近代裁判の鉄則は、人間は不完全な生き物であることを前提とし、それゆえに厳格な理屈で誤判を防ごうとし、被害者の存在には興味を持たない。しかし、人間は不完全な生き物であるならば、人間の作った近代刑法の理屈も完全ではないはずである。あまりに原理的に大原則を掲げすぎ、崇高な理想を喧伝しすぎると、その理想と目の前の俗物である犯罪者との間には笑ってしまうほどのギャップが生じ、多くの国民に違和感や不信感を生じさせる。原理主義的な真実として宣言された近代裁判の鉄則は、俗物の神格化というかなり余計なものまで取り込んでしまったようである。俗物は俗物なのだから、ごく簡単に、常識で考えればいい。


p.143~4 より 抜粋

人間には自分を正当化したいという欲求がある。この欲求とか防衛本能は強烈である。麻原彰晃は「弟子がやったことだ」という。ワイセツ教師は「スキンシップだった」という。万引きを見つかった少年は「していない」という。犯罪者も「おれはやっていない」という。刑務所に入れられるということを差し引いても、「おれではない」と抗弁する気持ちの中には自己正当化がある。こんなヤクザ者になったのは「おれが悪いのではない。親が悪い。社会が悪い」という。立派なことをいっていたのに、非を咎められると「おれは聖人君主じゃない」という。転向したのかといわれれば「人間は変わるものだ」という。ウソをついただろといわれると「ウソはついていない。忘れたのだ」と。もう処置なし。

自分は悪くないという正当化には、失敗は自分の責任ではないという責任転嫁が張りついている。不承不承、認めざるをえないとなると、今度は「おれだけじゃない」という。みんなやってることじゃないか、と。それでも追及されると、反撃に出る。「おまえだって似たりよったりじゃないか。人のことがいえた義理か」と。

絶対否認から責任転嫁へ。そこから、他人を巻き込む一般化へ。そして最後は、反撃による開き直り。すなわち自分でも信じてはいない原理へ。俗物で悪かったな。ふつうってなんだ。人を殺して何が悪い云々かんぬん、と。もうどうにもならない。なにがなんでも自分は守りとおしたいのである。俗物であろうとなかろうと関係がない。悪かろうとなんであろうと、いまの自分を「大した人間だ」と他人にも認めてもらいたいし、自分でもそのように納得したいのだ。

「いじめ」を定義することはできない

2007-11-17 15:08:04 | 言語・論理・構造
文部科学省は「いじめ」の定義について、長らく「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」と定義してきた。頭の良い方々が一言一句に気を使って、厳密に定義した結果であることはわかる。しかしながら、現に溺れている人を前にして浮き輪を投げず、会議室に集まって人命救助の講習会を開いているようなバカバカしさは消えない。文部科学省はようやく「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」と方針に転換し、教育再生会議は「いじめられた本人がいじめだと思えば、それはいじめである」と述べるようになった。

本人がいじめだと思えばいじめになる、これは言語哲学からはごく当たり前のことである。「それ」を動物だと思えば動物になり、犬だと思えば犬になり、コリーだと思えばコリーになる。福田内閣を支持すると思えば支持することになり、支持しないと思えば支持しないことになる。およそ言語が現れるのは、この方法以外にはない。他の方法はあり得ない。従って、「いじめだと思えばいじめになる」という命題はこの上なく正しい。ところが、これを新たな定義として掲げてしまうと、これまた面倒なことになる。このような定義はあまりに広すぎる、不明確だといって、いじめか否かの境界線が争われることになる。そして、大人がそのように争っている間に、多くの子どもがいじめられて自殺する。これを机上の空論という。

「一方的でないからいじめにあたらない」、「継続的でないからいじめにあたらない」といった従来の争いのバカバカしさは明確である。しかし、この反省の上に立って「言葉の問題に捕らわれて現実を見ていない」と言ってしまうと、人間は再び同じ間違いを犯すことになる。人間が捕らわれていた言葉の問題とは、何かを言語によって定義しようという欲望であり、その何かは言語によって定義できるという根拠のない盲信である。この盲信が閉じられた複言語ゲームを作り出し、その体系の維持を自己目的化させることになる。子どもの自殺という桁違いの現実に太刀打ちできるはずもない。「本人がいじめだと思えばいじめになる」という新たな定義は、その本人が自殺した場合には、端的に使い物にならない。真剣に議論した結果が、「自殺するときには詳細な遺書を書いてから死にましょう」といったしょうもない話になってしまう。

形而上的であると揶揄されがちな言語哲学であるが、「いじめはあったのかなかったのか」といった形而上の争いに比べれば、これほど現実的な思想もない。客観的に唯一的ないじめの存否という過去の動かぬ事実がある、そしてそれは証拠によって認定できるものである、このようなカテゴリーが使い物になっていないのは明らかである。死亡した本人は「死人に口なし」、加害者は「記憶にありません」、遺族はますます怒りを募らせる、この構造は刑事裁判と同じである。文部科学省が「いじめ」の定義を変えたところ、いじめは2万件から12万件に増えたらしい。この「増えた」という表現が正当なものとして成立していること、これは言語哲学が机上の空論ではなく、何よりも言語は現実の別名であることを示している。

松崎龍一著 『自己破産図解マニュアル』

2007-11-16 12:15:15 | 読書感想文
日本の自殺者が、平成10年以降9年連続で3万人を超えている。ちなみに、哲学者と言えば自殺のイメージがあるが、本物の哲学者は何があってもまず自殺しない。生死に対する覚悟が違うからである。世論を盛り上げよう、次世代に語り継ごう、何かを後世に伝えようといった主義主張には、哲学者はまず乗らない。どんなに後世に語り継いだところで、いずれ人類は滅亡し、地球も滅亡するのだから、社会運動に一体何の意味があるのか、この絶望を見失わないからである。この極限を経て戻ってきて、それでも生きることを選択しているのだから、その思想は極めて強靭である。ちょっとやちょっとのことで自殺するわけがない。

さて、この本の著者である弁護士は、借金を抱えて自殺しようとしている人に呼びかけ、励ましている。「自殺しても、問題の解決にはなりません。本人が自殺してしまうと、残された家族が困ります。多額の借金を抱えたまま本人が自殺すると、家族は相続放棄をしない限り、借金も相続することになります。そうすると、今度は家族が借金の返済で苦しむことになってしまします。残された家族は、本人に死なれた悲しみに加えて、経済的にも苦しめられることになるのです。また、いくら借金が返せないからといって、自殺する必要はありません。サラ金の厳しい取り立ては、借金の整理を弁護士に依頼すれば止まります」。

実際にこの文を読んで励まされて、自殺を思いとどまるならば、それに越したことはない。しかしながら、あまりと言えばあまりの励まされ方である。生は始まりであって死は終わりである、誰も好きで自分から人生を終わらせたくない、しかしそれでも生に意味が見出せない、そこへ持ってきて「死んでも終わりません」である。逆説的真実を示しているのかと思いきや、「死なれた苦しみの上に借金で苦しむ」との激励である。どうしようもなく生命が軽い。軽すぎる。こんな励まされ方をして自殺を思いとどまったところで、再び経済的な悩みを抱えてしまえば、その人はやはり自殺してしまうだろう。

多重債務、雪だるま式の借金、これらはすべて観念である。100万円を年利29.2パーセントで借りると、1年後には133万4515円となり、3年後には238万円を超え、8年後にはついに1000万円を突破してしまう。この数字に潰されれば、首が回らなくなって、首を吊るしかないという話にもなる。しかしながら、冷静に考えればすぐにわかるが、すべては自分の脳内の出来事である。真夏に雪だるまが存在するわけがない。雪だるまのイデアに振り回されているならば、それは単に妄想である。多重債務を整理して一本化すれば安心であるような気もするが、そもそも目に見えない債務を5本・10本と数えていること自体が妄想であるから、一本化したところで安心できる道理ではない。このような哲学的真実に背を向けて、生命よりもお金を大切にする社会を維持するならば、やはり自殺者の減少は望めない。

条文はどこにあるのか

2007-11-15 15:28:38 | 言語・論理・構造
条文とは一体どこにあるのか。普通の人は、「六法全書の中にあるに決まっている」と答えるだろう。もちろんその通りである。しかし、六法全書は法律ではない。六法全書は紙の上にインクが印刷された物質であり、条文そのものではない。条文は言葉であるが、言葉は紙やインクといった物質ではない。普通の人が生活する分には、そんな小難しいことを考えなくても一向に構わない。しかしながら、言葉を扱うプロであるはずの法律家が条文が言葉であることを忘れるとなれば、これはスタートが間違っており、その後が全部狂うことになる。

法律学のパラダイムでは、条文の拡大解釈や縮小解釈、反対解釈や類推解釈という技術を駆使して、条文の客観性を維持しようとする。そして、罪刑法定主義を大原則とする近代刑法においては、拡大解釈は許されるが類推解釈は許されないとされる。それでは、一体拡大解釈と類推解釈はどのように区別できるのか。このように問われるならば、紙とインクは何も答えることができない。言葉は物質ではないからである。

条文の世界は部分的言語ゲームであり、その中に入り込んでしまった人間は、条文を通してしか人間存在を見ることができなくなる。万引きやひったくり、スリや置き引きなどのこの世の現象は、すべて刑法235条の窃盗罪として罰せられるが、刑法235条の窃盗罪が「成立している」わけではない。条文は物質ではなく、言語である。犯行に着手すれば未遂となり、いずれ既遂に移るという時間的な流れは、現実にこの世に「成立している」わけではない。人間が言葉によって「成立させている」。すなわち、客観ではなく主観である。

専門用語を駆使する法律家は、「万引き」や「ひったくり」、「スリ」や「置き引き」などという日常用語を不明確であるとして軽視し、「本当は」刑法235条の窃盗罪が成立していると信じている。そう信じることによって初めて、事後強盗罪や常習累犯窃盗罪といった専門用語の展開が可能となる。そして、一般人は刑法235条の窃盗罪が成立していることを知らないが、自分達はそれを知っているという自負を持つようになる。しかしながら、刑法235条も言葉であり、言葉は紙やインクではない。六法全書の紙の上に印刷された「刑法235条」という文字は、あくまでインクであり、条文そのものではない。

専門用語を使いこなしている法律家は、日常言語しか扱えない一般人に比べて犯罪という現象を正確に捉えている、これがこの世の大前提である。裁判員制度の導入に伴う議論も、この点は大前提とされている。しかしながら、専門用語も言葉であって、この点においては日常言語と何も変わらない。法律学は、「条文とは一体どこにあるのか」という哲学的な問いには弱い。しかも、このような問いに対して、法律家は一般人と同じく、「条文は六法全書の中にあるに決まっている」と答えて平然としている。これでは、言葉を扱うプロとは呼べない。

【超短編小説】 司法試験受験生のお見合い話

2007-11-14 17:34:47 | その他
このたび、私の先輩がめでたく旧司法試験に合格しました。お祝いの意味を込めて(あまりお祝いになっていませんが)、その先輩をモデルとした短い三文小説を書きます。半分はフィクション、半分はノンフィクションです。


 あれは僕が26歳の時だった。親戚筋の伯母さんが、僕にお見合い話を持ってきたのである。写真を見ると清楚な美人で、自分にはもったいないくらいの女性だった。履歴書を見ると、彼女は1つ下の25歳、年齢的にも理想的だった。ご両親もしっかりとした方で、彼女の趣味は読書に絵画鑑賞、僕と話も合いそうだった。
 しかし、僕はその時司法試験受験生だった。大学を卒業しても定職に就かず、自宅と予備校の往復の毎日であった。択一試験にすら通っていなかったが、予備校の答練の成績は良いためなかなか諦めがつかず、あと数年間が勝負だと考えていた。だから、正直に言って、結婚など考えられない状態だったのである。
 それにもかかわらず、その伯母さんが言うには、彼女は僕の状況をすべて承知しているということであった。彼女は結婚願望が強かったが、周りには適齢期の男性がいなかったようである。そして、一流大学を卒業し、司法試験を目指しているというだけで、彼女は一方的に僕に興味を持ってくれたらしい。
 伯母さんの話では、彼女は僕が受験を続けている間は彼女が外で働き、公私ともに僕の受験生活を支えてくれるということであった。そして、僕が最終的に合格をするかしないかは特に問題ではないという。夢に向かって真摯に勉強をしているというその姿勢に好感を持ったということらしいのである。

 僕は非常に迷った。これ以上の話はない。今後もこんな話は転がっていないだろう。しかし、僕がこのお話を受けることは、人間として許されないと思った。僕には彼女を幸せにする自信がない。彼女の援助を受けながら、あと数年間も定職に就かずに勉強を続けるのも心苦しい。合格してから彼女を迎えに行くのが筋というものだろう。
 僕はそう思って、彼女とは一度も会わずに、その写真と履歴書を親戚筋の伯母さんに返した。もちろん、「合格したら必ず迎えに行きます。待っていてください」との言葉を添えてである。伯母さんは残念そうに写真と履歴書をしまいながら、「彼女には必ず伝えておくわ。勉強頑張って、1年でも早く合格してね」と言って帰っていった。
 それからの受験生活は苦難の連続だった。択一試験には受かるようになったが、最初の論文はG判定だった。その後、周囲からはいつ受かってもおかしくないと言われながら、あと一歩の総合A判定で落ちた。その間も、僕は彼女のことを忘れることがなかった。1年でも早く受かって彼女を迎えに行きたい。僕が苦しい勉強を続けてこられたのは、彼女に対する思いだけだったであろう。そして、10年の歳月が過ぎた。
 僕は今年、36歳になった。そして、14回目の受験でようやく合格を勝ち取った。自分の番号と名前を見た僕の心に真っ先に浮かんだものは、当然のことながら、この10年もの間ずっと忘れることのなかった彼女の姿である。彼女は今35歳になっているはずである。今、どこで何をしているのだろうか。僕のことを待っていてくれているだろうか。僕は居ても立ってもいられなくなり、最終合格発表があったその日に伯母さんに電話をした。

 伯母さんは僕の最終合格を自分ことのように喜んでくれた。そして、親戚の誇りだとほめてくれた。僕は、この10年間の苦労が報われたような気がした。しかし伯母さんは、その直後、思いがけないことを言ったのである。「次は結婚を考えなければいけない年頃ね。誰かいい人いないの? 付き合っている女性はいるの?」。
 僕は遠回しに、彼女のことを聞こうとした。しかし、伯母さんは全く覚えていないようであった。そこで僕はしびれを切らし、わざと思い出したようにこう言った。「そういえば、10年くらい前、伯母さんが僕のところにお見合い写真を持ってきてくれたことがあったじゃないですか。あの彼女は元気でやっているんですか?」
 伯母さんは彼女のことを初めて思い出したようで、電話口で笑ってこう言った。「ああ、あの彼女ね。ずいぶん前に結婚したわよ。ミレニアムとか何とか言ってたから、2000年のことじゃないかしら。今は小学生と幼稚園の女の子が2人いるわよ。2人ともお母さんに似て、とっても可愛いわよ」。
 僕は意味もなく笑ってしまった。電話を切ってもまだ笑っていた。そして、何だかホッとした。僕が10年間も苦しい受験生活を送ってこられたのは、間違いなく彼女のおかげである。それで十分であろう。僕は何を常識はずれなことを考えていたのだろうか。僕は、一度も会ったことがない彼女に向かって、心の中で勝手にお礼を言った。そして、常識はずれの時間軸で生きてきた僕の受験人生を思い返し、自分自身に大爆笑した。笑いながら、最終合格が夢ではないことを初めて実感し、自然と涙があふれた。

飛岡健著 『哲学者たちは何を知りたかったのか?』

2007-11-14 12:12:04 | 読書感想文
すべての学問は、トコトン掘り下げてゆくと、すべては哲学という地下水脈でつながっている。細分化した学問を統合し、ひとつ上のレベルでの知の統合を図るのであれば、それは「万学の女王」と呼ばれた哲学の復権しかあり得ない(p.33)。哲学をすべての学問の中心に据えるならば、それによって今日の課題や世界の成り立ち、歴史などの再構成をはかることも可能となってくる(p.179)。例えば、我が国では数年来にわたって少子高齢化問題が真剣に議論されているが、その割に問題が全く解決しないのは、物事を経済的な側面からしか考えていないからである。哲学的な思考によれば、問題はすでに解決している(p.135)。

なぜ哲学は「万学の女王」なのか。それは、哲学的思考とは、人間の外部である森羅万象を飽きずに営々と論じるとともに、それを客観的な実在として見下ろすのではなく、それを論じている人間そのものを見失わないからである。すなわち、哲学とは「自分が何者であり、どうして考えることができるのか」について考える営みである(p.16)。そこでは、「数学について考えている自分」、「物理学について考えている自分」などが想定できるため、論理的に自然科学よりもメタの位置に立つことになる。「問題は問題とするから問題となるのであって、問題とすることこそが問題だ」、これはイギリスの劇作家のバーナード・ショー(1856-1950)の言葉であるが(p.56)、哲学的思考の本質を捉えている。

もちろん、哲学に対して安易な解答を求めても、それは少しも与えられない。善とは何か、悪とは何か、これを本質的に問いただしてゆくならば奥行きが深すぎて、それだけで一生が終わってしまう(p.112)。そうであるならば、単にそのこと自体を認識しておけばよい。ネット上で社会問題を論じて盛り上がって熱くなり、2日かかっても3日かかっても決着がつかずに、徒労感だけを残しているのが現代人である。哲学的思考は、このような無駄を避けるための知恵ともなる。「自分は何のために生まれてきたのか」という悩みが会社や学校との関係で捉えられて、自暴自棄となってうつ病や自殺に追い込まれるのが現代人であるが(p.147)、これに出口を与えるのも哲学の仕事である。

現代人の哲学的な悩みは、多くは心理学や社会学によって分析され、さらには経済学や法律学によって対策が立てられているが、結局何も解決していないことが多い。肝心の哲学者はアカデミズムに陥り、単に先哲の偉業から些細な論理を組み立てて、きわめて狭い世界で難解な用語を駆使した言葉遊びに酔いしれている。独自の思索からこの世の存在や事象を説き明かし、人間がよりよく生きるための指針を示す哲学者は少ない(p.22)。これでは「万学の女王」の沈滞もやむを得ない。万学の女王であることを諦めた細かい文献研究に走れば、哲学者たちが知りたかったことからは遠ざかる。しかも、それは現に社会の役にも立たない。

パンを1個盗んで懲役10年

2007-11-13 21:47:44 | 言語・論理・構造
窃盗罪(刑法235条)の法定刑は、懲役1ヶ月以上10年以下である。それでは、コンビニでパン1個を万引きした犯人に対し、懲役10年の刑を言い渡すことはできるか。答えは「できる」である。懲役11年を言い渡せば完全に違法であり(併合罪加重も累犯加重もない場合)、法令適用の誤りが存在する(刑事訴訟法380条)。これに対し、懲役10年の判決ならば合法であり、量刑不当として争われるにすぎない(同法381条)。現行法の条文は、起訴猶予・微罪処分相当の万引きに対して、論理的に裁判官が懲役10年の刑を言い渡すことを防げない形になっている。

それでは、現実にこのような判決を防いでいるものは何か。それは、条文にない量刑相場である。罪刑法定主義の要請としては罪刑の均衡、予測可能性の確保などが求められ、現に実際に問題とされているのは、厳罰化の傾向や国民世論の反映に対する賛否両論である。しかしながら、そもそも現在の法律は、論理的に裁判官が軽い万引き犯に対して懲役10年の刑を言い渡すことを認める形になっている。一時期、刑事政策学で刑の計量化が試みられたこともあったが、そんなものはもとより不可能であった。このような法律の条文の弱点は、条文に書かれていない量刑相場の確立によって、表立っては問題とならないようにされている。

しかし、そもそも相場とは、市場で取引されるその時々の商品の値段のことである。転じて、ある特定の時代、特定の場所における世間一般の考え方や評価のことであり、時代や場所によっていくらでも変わる種類のものを指す。条文の一言一句まで細かく解釈しなければ気が済まない法律家も、この点については最後の詰めが甘い。なぜ法律では懲役10年の刑を言い渡すことが認められているのに、これを言い渡してはいけないのか、刑法の実証性からすればお手上げである。正義、公平、常識などと言いたくなるが、それでは客観性の建前が崩れてしまう。誰しも限界がわかっているため、触れないようにしている事項である。実定法学者がここを掘り下げると、自分の足元が見事に崩れてしまう。

実証科学として発展した刑法学は、膨大な判例の集積によって、安定した量刑相場を確立してきた。しかし、それはすべて量の集積であって、質を変えることはできていない。刑法の条文上、軽い万引き犯に対して懲役10年を言い渡せるという事実は少しも動いていないからである。結局、量刑相場を支えている客観的な原因など何もなく、にもかかわらず量刑相場が支えられているのは、個々の裁判官に委ねられていると言うしかない。それは、崇高な職務を担う者の高い見識による職業倫理の実現である。言い換えれば、「変な裁判官」として叩かれてエリートコースから外れ、出世ができなくなることへの恐れである。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』

2007-11-12 10:24:59 | 読書感想文
身内を犯罪で亡くしたことのない人にとって、この本の読み方は、大きく分けて2つある。1つは、そのまま字面を追う方法である。「これが有希と交わす最期の言葉になるとは、ゆめゆめ思いもしませんでした」。「なぜ有希が逝かなければならなかったのか? なぜ忽然と目の前から消えてしまったのか?」。このような文字を追っていけば、確かに事実が重いことはわかり、遺族の悲しみも想像できる。しかし、自らにそのような経験がない人にとってはどこまでも他人事であって、3人称の死である。これは、裁判で遺族の意見陳述を聞く裁判官も同様である。「遺族の処罰感情は強いが、被告人は深く反省している」といった他人事のような判決文は、このような物事の捉え方の延長線上にある。

もう1つの読み方は、被害者の名前の「有希」のところに、自分の肉親の名を代入して読む方法である(もちろん周りの条件も合うように変える)。こうすると、3人称の死は一気に2人称の死へと姿を変え、言葉は一気に動き出す。「呼吸していない○○を目にしても、○○(息子、娘、父、母など)に死が訪れているなどとは、どうしても認めたくありませんでした」。「『○○起きなさい』と何度肩を抱いてもゆらしても、手や足が動くわけでもなく、胸が動くわけでもありません」。このようにして読むと、同じ文字が全く違って見える。言語道断の緊張感をもって、読む者を捕らえる。これは驚くべき変化である。

「○○の横たわる身体は、もう二度と動くこともなく、呼吸をすることもない」。「いつも笑顔だった○○が消えてしまった部屋も、以前と変わらない空気や、臭いがします」。「最期の望みとして、ほんの数時間でも良いから、温かく脈打つ手を握り締め、○○の名前を呼びながら『さよなら』を言いたかった」。自分の肉親の名を代入するだけで、血がカッと熱くなり、頭に血が上る。映像にはない、文字の持つ力である。「考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わることだ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう」(小林秀雄著『考えるヒント』より)。

人間の生死の問題を忘れて先に進み、公訴事実の証拠による認定だけを問題とする実証科学は、2人称の死を語る言葉に耐えられない。それはすべての死を3人称の死に変形し、それが遺族に対して必然的に人為的な二次的被害をもたらす。刑事訴訟法1条には「真実発見」が掲げられているが、この目的を達するためには、被告人の生い立ちやそれまでの人生は非常に重要である。それは量刑の選択に深く関わる真実だからである。これに対して、被害者の生い立ちや失われた人生は、刑事訴訟法の真実とは全く関係がない。

人権思想に基づく近代刑法の大原則は、万学の女王である哲学を捨てた。そして、人間の生死を「業務上過失傷害罪」「業務上過失致死罪」という言語に変形し、これを「詐欺罪」「わいせつ物販売目的所持罪」「大麻取締法違反」などの言語と同一の直線上に並べた。これはこれで法治国家の1つの便宜ではあるものの、人間の生死を扱うにはいかにも力不足である。交通事故死は、「安楽死」「終末医療」「がんの告知」「闘病記」「老親の介護」「過労死」「自殺」「ペットロス症候群」などの言語と同一の直線上に並べられるべき事項である。交通事故死の真実は、刑事訴訟法1条の「真実発見」では発見できない。遺族によって絞り出される言葉は、無機質な判決文よりも真実を捉えている。これも当然の話である。

新司法試験問題漏洩疑惑

2007-11-11 18:27:45 | その他
司法制度改革の目玉、法科大学院と新司法試験制度がボロボロである。元慶応義塾大学法科大学院教授(元司法試験考査委員)の植村栄治氏による試験問題漏洩疑惑が、今日の朝日新聞の1面を飾ってしまった。こんなことでは裁判員制度もボロボロになるだろうと決め付けるわけにはいかないが、実際に決め付けられても仕方がない話である。

植村氏は行政法の権威であり、日本の代表的な法学者である。法律は言語による構成物であり、法学者はその一言一句の法解釈をするプロであるから、法学者は言葉を扱うプロであるはずである。ところが、この植村教授や周辺の法学者の言葉を聞くと、とても言葉を扱うプロとは思えない。

植村教授は「出題される内容について学生に事前にメールを流したが、『試験に出る』とは書かなかったので、漏洩にはあたらない」「授業の延長であり漏洩の意図はなかった」と述べている。これに対して、他の法学者からは、漏洩行為に該当するのは明らかであるとの批判が出ている。事実は事実として認めながら、それが「漏洩行為にあたるか」という点を争っているが、これは答えが出ない。

なぜ答えが出ないのか。それは、「漏洩」が抽象名詞であるという点に尽きる。バケツに穴が開いた、台所やトイレで水漏れが起きている、この物理的な現象ですら、「漏れる」という動詞は目に見えない。「漏れ」という抽象名詞も目に見えない。これが情報の漏れとなれば、メタファーは二重になる。「漏れ」は「漏れ」であって、「漏れ」以外のものではない、客観的に明確なものを確定しようとするならば、この形式の絶対性以外には何も残らない。

植村教授を「漏洩だ!」と非難している法学者も、もし自分の法科大学院の学生を思う余りに同じことをしてしまい、それが発覚したときには、「漏洩ではない!」と言い張るのがオチである。こんな教授と学生との授業が「ソクラテス・メソッド」と銘打たれ、鳴り物入りの双方向授業として喧伝されていては、ソクラテスもびっくりである。