犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『考える日々Ⅱ』 より

2007-11-10 16:36:58 | 読書感想文
11月8日、佐賀県武雄市の病院で入院中の宮元洋さんが殺害された事件は、暴力団関係者と間違われた可能性が強まっている。人違いで殺されるという理不尽、その現実に直面して言葉を失う現実、この絶句以上の現実はない。しかしながら、この事件を刑法199条(殺人罪)という条文を通して見てしまうと、人間の純粋な絶句は確実に迷走し、なかなか元に戻ることが難しくなる。刑法の教科書においては、この問題は具体的事実の錯誤(同一構成要件内の錯誤)における客体の錯誤と呼ばれ、法定的符合説と具体的符合説のアカデミックな争いが続いている。刑法学は、この争いは「哲学的である」と自負しているようであるが、実際には哲学的でも何でもない。


『考える日々Ⅱ』  「批評活動の本物とニセモノ」より p.87~91の随所を変形して抜粋

専門の法律用語が噛み砕かれていないこと、書かれたものを見れば一目瞭然である。消化不良のまま吐き出された言葉は、妙な漢字の羅列になっているだけである。「具体的符合説によれば具体的事実の錯誤のうち方法の錯誤は故意を阻却するが客体の錯誤は故意を阻却しない」、これを普通の日本語で言ってみよ。尋ねて答えられないなら、知識として吸収されていないということだ。

法律家はこう述べるだろう。「思うに、故意責任の本質は、規範に直面しつつあえて犯罪行為に出るという直接的な反規範的人格態度に対する非難にある。そして、規範の問題は構成要件ごとに与えられているので、同一構成要件内であれば具体的事実に錯誤があっても、規範の問題に直面したといえるから、故意非難が可能と考える(判例同旨)」。さて、それでは、「彼はなぜ人違いで殺されなければならなかったのか」という親族からの質問に対して、あなたは逃げないで答えられますか。

人がものを考えるのは、それを知りたいという端的な欲求以外に動機はない。何しろ話は殺人罪、すなわち人間の死である。存在すること、生きて死ぬこと、これ以上の不思議があるか。存在を知るために考えるのなら、生きて死ぬ限りの誰にもできることである。何ゆえそれを法定的符合説と具体的符合説の対立と華々しく競って、多くの人に近づき難い議論をする必要があるのか。生きて死ぬ限りの人類が、数千年考え続けてきたそれである。最新判例やら近時の有力説なんぞでチャラチャラ変わってたまりますかね。

「判例によれば」「通説によれば」と出てきたら、まずそれはニセモノだと思って間違いない。哲学的な問題というのは、「考える」こと以外ではあり得ないのだから、誰それが言おうが言うまいが関係ないからである。

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