犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

飛岡健著 『哲学者たちは何を知りたかったのか?』

2007-11-14 12:12:04 | 読書感想文
すべての学問は、トコトン掘り下げてゆくと、すべては哲学という地下水脈でつながっている。細分化した学問を統合し、ひとつ上のレベルでの知の統合を図るのであれば、それは「万学の女王」と呼ばれた哲学の復権しかあり得ない(p.33)。哲学をすべての学問の中心に据えるならば、それによって今日の課題や世界の成り立ち、歴史などの再構成をはかることも可能となってくる(p.179)。例えば、我が国では数年来にわたって少子高齢化問題が真剣に議論されているが、その割に問題が全く解決しないのは、物事を経済的な側面からしか考えていないからである。哲学的な思考によれば、問題はすでに解決している(p.135)。

なぜ哲学は「万学の女王」なのか。それは、哲学的思考とは、人間の外部である森羅万象を飽きずに営々と論じるとともに、それを客観的な実在として見下ろすのではなく、それを論じている人間そのものを見失わないからである。すなわち、哲学とは「自分が何者であり、どうして考えることができるのか」について考える営みである(p.16)。そこでは、「数学について考えている自分」、「物理学について考えている自分」などが想定できるため、論理的に自然科学よりもメタの位置に立つことになる。「問題は問題とするから問題となるのであって、問題とすることこそが問題だ」、これはイギリスの劇作家のバーナード・ショー(1856-1950)の言葉であるが(p.56)、哲学的思考の本質を捉えている。

もちろん、哲学に対して安易な解答を求めても、それは少しも与えられない。善とは何か、悪とは何か、これを本質的に問いただしてゆくならば奥行きが深すぎて、それだけで一生が終わってしまう(p.112)。そうであるならば、単にそのこと自体を認識しておけばよい。ネット上で社会問題を論じて盛り上がって熱くなり、2日かかっても3日かかっても決着がつかずに、徒労感だけを残しているのが現代人である。哲学的思考は、このような無駄を避けるための知恵ともなる。「自分は何のために生まれてきたのか」という悩みが会社や学校との関係で捉えられて、自暴自棄となってうつ病や自殺に追い込まれるのが現代人であるが(p.147)、これに出口を与えるのも哲学の仕事である。

現代人の哲学的な悩みは、多くは心理学や社会学によって分析され、さらには経済学や法律学によって対策が立てられているが、結局何も解決していないことが多い。肝心の哲学者はアカデミズムに陥り、単に先哲の偉業から些細な論理を組み立てて、きわめて狭い世界で難解な用語を駆使した言葉遊びに酔いしれている。独自の思索からこの世の存在や事象を説き明かし、人間がよりよく生きるための指針を示す哲学者は少ない(p.22)。これでは「万学の女王」の沈滞もやむを得ない。万学の女王であることを諦めた細かい文献研究に走れば、哲学者たちが知りたかったことからは遠ざかる。しかも、それは現に社会の役にも立たない。

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