犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

犯罪被害者週間全国大会2007 (全電通ホール) その2

2007-11-27 21:27:09 | その他
被害者の体験談とメッセージ
「私は警察にずっと騙されていた」 二宮通さん・「南の風」代表

二宮さんの妻は、精神分裂症であった彼女の弟に殺害された。弟は施設を抜け出して器物損壊事件を起こしたが、二宮さんの妻は実の姉というだけで引き取りを求められ、その上に謝罪と弁償の責任まで負わされた。翌日、警察に謝罪と弁償のために出かけようとしていた妻は、弟から包丁で何十か所も刺されて殺害された。警察署では器物損壊事件の直後に「保護カード」を作成しており、そこには弟の状態に関して「精神錯乱者で事情聴取したが、意味不明の言動をしたので、保護を必要と認めた」と書かれていた。これは明らかに警察署の責任を問われる証拠となるものである。ところが、二宮さんがその書類の記載を知ったのは2年以上経ってからであった。二宮さんが見せられていた別の「捜査報告書」には、弟の状態に関して「既に精神錯乱ではなく、かつ応急の救護を要する状態ではなかった」と書かれていた。この捜査報告書は、警察署には責任がないことの証拠となるものであるが、事件から2ヶ月以上経ってから作られたものである。

真実の究明よりも自分達の保身、生命の尊重よりも組織の論理、問題点は明らかである。これは犯罪を扱う警察署では如実に表れるが、すべての組織においても同様であり、最後は人間個人の問題に帰着する。さて、日本のどこかで再び同じような事件が起きた。警察署では、事件から2ヶ月後に捜査報告書を作成することになった。ここで、「精神錯乱者で保護を必要と認めた」と記載できる人間がこの世にどれだけ存在するか。組織の論理からすれば、警察署の責任を認める記載をするような人間は、空気が読めない(KY)といって軽蔑される。もしくは、組織の正当な論理によって処分される。このような空気の中で積極的に自らの倫理に従い、自らの判断だけで警察署の責任を認めるような記載をした人間は、組織の中ではまず生き残れない。この構造は強固である。職務に対する誇りは、組織を破壊するような行動を何よりの悪と位置づける。

保護カードに「保護を必要と認めた」と書いた警察官も、捜査報告書に「応急の救護を要する状態ではなかった」と書いた警察官も、それを書くように指示した警察官も、決済の印鑑を押した警察官も、おそらく今日も警察官として真面目に働いている。不正を許さない強い正義感を持って、責任感と職務に対する誇りを持って、公務員倫理に従って、日々真剣に職務を全うしている。そして、自らの働きによって、人々が安心して生活できる平和な社会が維持されていると自負している。さて、このような警察官に対して、二宮さんの声は届くのか。恐らく届いてしまった人から、警察官が務まらなくなり、仕事を辞めなければならなくなるだろう。近代的自我の確立とは、自分が自分であることを大前提とし、それが動かぬ存在であることを出発点とする。そうだとすれば、赤の他人が死のうが苦しもうが、自分の保身が最優先の事項となるのも当然の帰結である。

人間が生きて死ぬしかないこの世において人間の生死を遠ざける、これは現代社会の病理である。精神錯乱者を保護せずに引き渡してしまった、その結果として殺人事件が発生してしまった。この恐るべき事実に一人の人間として向き合うならば、恐らく誰しも身が持たない。それ故に、生死の問題からは目が逸らされ、責任の所在の問題が取って代わる。しかしながら、人間の生死という本質に直面していることがわかっているのに、責任の所在という現象で何を語れるというのか。殺されたのは赤の他人である、自分は殺されていない、この事実ほど近代的自我において都合のよいものはない。何を好き好んで、自分から責任を負いに行く必要があるのかという話である。裁判において犯罪被害者遺族の意見陳述権が認められるようになり、なおかつ裁判員制度も導入され、今後は二宮さんの講演のような陳述が法廷の裁判員の前で聞かれるようになる。裁判員の涙が止まらなくなり、とても公平中立な裁判などできなくなってしまえば、裁判員制度は大成功であろう。

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