犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大屋雄裕著 『自由とは何か』

2007-11-25 19:53:00 | 読書感想文
優れた思想家は、従来の単語では物足りず、「それ」を表現するために独自の用語を生み出すものである。大屋氏にとっては、「近代法の逆説」がそれであるが(p.95)、これはかなりの傑作である。近代法の逆説に気が付くか否かで、私的なルサンチマンを高貴な思想と勘違いする過ちを防ぐことができるだろう。人権に対する危険が政府の存在に先行していなければ、そもそも人間は社会契約など結ぶ必要もない。国家とは、個人の自由を侵害すると同時に、個人の自由の守り手でもある。従って、国家権力に抵抗するという単純な人権論だけでは、他の暴力的な市民からの侵害を排除できないことになる。自由を確保するには、過剰と過小という二重の危険の間の隘路を探すしかない(p.96)。

人権論のパラダイムにおいては、事前規制と事後規制の二項対立の図式が主流である。そして、事前規制は表現の自由に対する萎縮効果を及ぼすものだとして、できる限り事後規制の方法を用いるべきだとされてきた。この図式は非常にわかりやすいものの、いかにも単純で政治的にすぎるきらいがあった。大屋氏は、事前規制と事後規制を二項対立的には考えない(p.143)。このような脱構築を経て初めて、思想はオピニオン合戦を離れて次の段階に進めることになる(p.133)。できる限り事後規制の方法を用いるべきとの理論は、必然的に発生する最初の被害者の存在には鈍感である(p.144)。監視カメラはプライバシー権を侵害するとしても、現に犯罪の発生を防ぎ、被害者の発生を防いでいるからである。

事前規制によって防ぐことのできた事件、すなわち現実に起こらなかった事件は、この世に存在しない。もしくは、無限に存在する。従って、現にここに生きている人は、すべて殺人事件によって殺されないで済んでいる人である。言語哲学に造詣が深い大屋氏が(p.8)、ウィトゲンシュタインの独我論の緊張を込めていることは想像に難くない。事後規制の方法では最初の被害者の発生を防げないが、独我論が反転してすべての人間に独我論が妥当するならば、これを「やむを得ない」の一言で済ませられるわけがない。できる限り事前規制を廃止し、事後規制の方法を用いるとすれば、それはハズレくじを引かせる人間を必然的に増やすことになる。メーガン法の問題も(p.129)、二項対立の図式を脱構築してみれば、単なる賛成反対論以上の視角が取れる。無いことは無い、もしくは無限に在る。これは哲学が2000年以上も哲学が考えてきた存在論の問題であって、法律を作れば完璧に解決するといった種類の問題ではない。

法律学における「擬制」とは、それが法的な現実を作り出すことであって(p.194)、法が客観的実在の上に構築されるというのは思い違いである。法理論は擬制的なものとして示されるとき一層客観的であり、擬制なしにやっていけると主張するとき一層虚偽的である(p.195)。法人が存在するときに法人の行為が生まれるというのは、手段と目的の関係ではなく、行為を見ることにおいて主体の存在を想定するという生成的な関係である(p.196)。同じように、自由な個人だから結果の責任を負わねばならないのではなく、責任を負うことによって人間は自由な個人となる(p.199)。これは法律学において一般に考えられている自由と責任との因果関係を逆転させるものであるが、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に造詣が深い大屋氏からすればごく当たり前のことであろう。

大屋氏にとって法哲学とは、哲学の道具立てを使って法・政治の仕組みを分析する学問である(p.10)。このように本物の法哲学者にはっきりと述べて頂くと、偽物の法哲学研究生(私)もかなり救われる。現代の自由論は、従来のように国家権力を悪者にしているだけでは済まない側面がある。例えば、携帯電話を持たないことをポリシーとしている人が、会社組織の中で「携帯電話を持たない自由」を行使したとして、現実にやって行けるのか。この問題は、国家権力とは何の関係もないものの、現代の「自由」という概念について多くの示唆を含んでいる。個人の権利意識が伸張し、多様な価値観が共存する社会になってきたというのは単なる幻想ではないのか。このような問題については、憲法13条の幸福追求権の人格的利益説と一般的自由説で争っている憲法学者は頼りにならない。大屋氏の今後の脱構築に大いに期待するところである。

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