犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小林秀雄著 『考えるヒント』・「良心」の章より

2007-11-22 10:52:37 | 読書感想文
11月20日の朝日新聞の投稿欄である「声」の欄に、個人情報保護法の壁についての投書が載っている。


「再会遠ざけた情報保護の壁」 55歳
仕事の縁で出会って20年。今年も都合を伺うため、初夏に老人ホームに電話をしたところ、Kさんはもういないという答え。すぐに老人ホームに行って尋ねたが、担当者はどこへ移ったかKさんの個人情報は教えられないという。(中略) 8月中旬、次に見舞った時、彼女はすでに亡くなっていた。お墓はどこかと職員に聞くと、個人情報は教えられないと、ここでも同じ対応だった。(中略) 個人情報の保護ばかりが一人歩きしているが、個々の人格を思いやった情報の取り扱いが出来ないものだろうか。


最近、このような投書を初め、住所録も緊急連絡網も作れなくて不便だとの声が非常に多い。しかし、改善の兆しは全く見られない。「杓子定規にならず、法の趣旨を正しく理解すべきである」といった掛け声も聞かれるが、問題はそんなに簡単ではなさそうである。現に上の投書において、老人ホームの担当者が自らの判断で個々の人格を思いやり、Kさんの個人情報を教えたとなればどうなるか。おそらく、その結果如何にかかわらず担当者は不祥事として上司から叱責され、上司も監督責任を問われるだろう。自らの良心に従ってしたことが減点法によって職務倫理を問われ、組織全体の責任問題となるならば、誰も怖くて柔軟な法解釈などできなくなる。杓子定規の恐ろしいところは、一旦その定規を見てしまうと、もはやそれを無視できなくなるということである。


p.66~ 変形して抜粋

個人情報保護法を推進する人は、その条文の改正を重ねることによって、世の中のトラブルをすべて解決する完璧な条文に近づくことを願ってやまないだろう。だが、このことは、条文が完璧に近づけば、人間は馬鹿でも済む以上、人間の馬鹿を願って止まないことになりはしないか。「とんでもない、私は正しい個人情報保護法制を実現したい。だから、正しい法の趣旨を国民に説明しているのだ」。もっともな返答だ。でも、なぜ君は「最後に一目でも会いたい」「せめてお墓参りをしたい」という人間の良心の問題に関して、わざわざ正しい法の趣旨を経由するのか。

考えるとは、合理的に考えることだ。現代の個人情報保護法制の流れに乗じて、「個人情報なので教えられません」と答えて憚らない人々の様子を観察していると、どうやら決められた法律を遵守することが合理的に考えることだと思い違いをしているように思われる。当人は考えているつもりだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が至るところに見える。

人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない。個人情報保護法制を考えるに際し、良心の問題を除外し得ても、良心とは問題ではなく事実なのであるから、彼が意識するとしないとを問わず、良心は彼の心のうちに止まるだろう。「個人情報なので教えられません」と言われると、言われたほうはなぜそれを「壁」だと感じるのか。職務倫理規定に従って「個人情報なので教えられません」と繰り返す職員の側も、心の片隅では「本当はこんな言い方はしたくないのに」と考えているのはなぜか。

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