犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

犯罪被害者週間全国大会2007 (全電通ホール) その4

2007-11-30 14:59:27 | その他
被害者の体験談とメッセージ
本田英子さん・「全国交通事故遺族の会」会員

本田さんの息子さんは、平成5年11月、時速85キロ以上の猛スピードで運転してきた加害者の車にはねられ、わずか17歳で亡くなった。加害者は最高裁まで徹底して争ったが、遺族への謝罪は未だにない。この事故は、本田さんの息子さんが横断歩道を横断中に起きたものであり、被害者側には何の落ち度もなかった。しかし、例によって加害者は被害者側の過失を主張し、被害者は「死人に口なし」でどうすることもできず、最初の実況見分では衝突地点は10数メートルもずらされていた。裁判の中において、本田さんの申し立てた民間の鑑定により、ようやく衝突地点が横断歩道であると確定し、被害者側には何の落ち度もなかったことが証明されることになる。

全国交通事故遺族の会は、遺族同士が会って話し合い、癒し励まし合おうとする思いで設立された自助団体である。現在では、電話相談をはじめ、裁判傍聴、署名活動、事故防止活動なども行っている。ここでは、単に悲しみを語るだけではなく、被害者ならではのきめ細やかな支援も必要であり、そのためには経済的基盤が不可欠であることも当然である。ところが現在のところ、同会は会員からの会費だけで運営されており、より充実した支援をすることが難しい状況にある。

近代法治国家においては、加害者の罪を裁くのは刑事裁判しかなく、加害者の責任を問うのは民事裁判しかない。ところが、遺族がこれを自分だけで傍聴に行くと、多くの場合は目を覆うほどの光景を見せつけられ、二次的被害を拡大させてしまう。現に本田さんの裁判では、加害者は「自転車のほうが飛び出して来た」といった虚偽の証言をしたが、本田さんはそれを傍聴席で黙って聞いていなければならなかった。傍聴席で声を上げれば退廷になるからである。そうかといって、遺族が裁判を傍聴しなければ、やはりその逃避による後悔の念で二次的被害を拡大させてしまう。従って、遺族同士が自助団体を形成し、一緒に傍聴するのが最善策であるということになる。

犯罪被害者は、刑事裁判では蚊帳の外に置かれて苦しめられるが、民事裁判では対等な当事者の地位に置かれて苦しめられる。私的自治の原則の訴訟法的反映としての処分権主義・弁論主義などといった数々のテーゼ、請求原因から抗弁・再抗弁と展開する要件事実論、これらの法技術がすべて遺族には暴力的に作用する。対等な当事者としての攻撃と防御、これは不動産や借金や悪徳商法の裁判には使い勝手がよい法技術であるが、交通事故の遺族をこのレベルに立たせるのは、どう足掻いても場違いである。

現に、被告側の答弁書や準備書面は目を覆うほどの残酷さである。「原告の日記は知識のない遺族が主観的な感情をあらわにして記載したものであり客観性がない」、「遺族の陳述書は抽象論を繰り返すばかりで具体的な精神的苦痛についての資料が何ら提出されていない」、「原告の裁判所に宛てた手紙は事実関係を誇張・歪曲して記載しており議論に値しない」、「被害者には婚姻を前提として交際していた女性はおらず生活費控除率の計算は不当である」、「被害者が死亡したから過失があると主張するのは本末転倒の論理であり意味をなさない」、「被害者の葬儀は社会通念に比して過大であってその全額を被告が負担すべき義務はない」、「被害者の成績からすれば大学に合格しなかった可能性が高く生涯賃金は平均よりも低く算定すべきである」、等々。法治国家では、このような攻撃的な記載が標準的なものとして確立している。これに裁判官も慣れ、相手方の弁護士も慣れ、それどころか自分達の弁護士も慣れているとなれば、もはや遺族の二次的被害の発生は必然的である。

被告が徹底的に最高裁まで争う権利があること、遺族が悲しもうが泣こうが自らの権利のために攻撃ができること、謝罪などする義務がないこと、これらは近代法治国家によって加害者に与えられたお墨付きである。日本国憲法32条の「裁判を受ける権利」もその表れである。近代法治国家がここまで筋を通したいというならば、それによって生じる波及効果の事後処理まで責任を持ってしなければ、筋を通したことにはならない。すなわち、国や地方公共団体は、被害者団体に経済支援をするのが筋である。

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