犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

論理の形式だけを取り出すのは難しい

2007-09-03 17:08:31 | 国家・政治・刑罰
山口県光市の母子殺害事件の被告弁護団のメンバーで広島弁護士会の足立修一、今枝仁両弁護士らが、大阪弁護士会の橋下徹弁護士を相手取り、損害賠償を求める訴えを広島地裁に起こした。同事件においては、橋下弁護士がテレビ番組において被告弁護団に対する懲戒処分を求めるよう視聴者に呼びかける発言をしたことにより、弁護団に対するメールや手紙による懲戒請求が殺到していたものである。

このようなネット社会におけるバッシングの過熱に関しては、価値中立的な一般論からの批判がなされることが多い。「出口のない社会の閉塞感を背景に、誹謗中傷をゲーム感覚で楽しむ風潮がネットを中心に広がりを見せており、現代では一つ間違えば誰もが標的になりうる状況にある。従って、バッシングの内容とは別問題として、我々はネット社会の恐ろしさについて考え、冷静にならなければならない」。弁護団の弁護権を支持する立場からは、このような意見が述べられていた。有志の弁護士が500人以上も集まり、広島弁護士会の会長も緊急声明を出した。確かにこのような論理だけを取り出せば、全くその通りである。橋下弁護士に賛成しようが、被告弁護団に賛成しようが、ネット社会の恐ろしさを考えることは価値中立的である。

しかしながら、もし何かの事件で決定的な冤罪が発覚し、無辜の市民が濡れ衣を着せられたことが判明し、警察署や検察官へのバッシングが起きた場合、弁護士会は同じような声明を出すのか。これは通常では考えられない。むしろ弁護士会は、ネット社会を利用してバッシングを呼びかけ、煽る側に回ることが予想される。そこまでは行かなくても、沈黙を守りながら腹の中で笑っているのが通常である。出口のない社会の閉塞感、誹謗中傷をゲーム感覚で楽しむ風潮に警鐘を鳴らすという理論は、そのバッシングの内容とは切り離され、一見すれば価値中立的である。しかし、政治的な論拠として一定の主張に結び付けられるものは、価値中立的ということがあり得ない。複数の価値中立的な理論の中から、あるものを選択し、あるものを選択しないという行動において、そこにはすでに主義主張が表れている。

弁証法のメタ言語から眺めてみるならば、価値中立的な理論の存在こそが幻想である。価値を知らずして、いかにして価値中立を知るのか。あえて価値中立的な理論を唱えてみるならば、それは「価値中立的な理論は存在するという理論と、価値中立的な理論は存在しないという理論とが存在することそのもの」としか言いようがない。自らの主義主張で血眼になっている左右両陣営いずれにとっても、ネット社会はネット社会であり、バッシングはバッシングであることは争いがない。価値は価値であり、中立が中立であることも同様である。これらは台風の目のように不動である。議論の内容から独立して、論理の形式だけを取り出そうとするならば、実際のところ、このようなものしか残らない。

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