犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

無用の用

2007-09-09 18:42:46 | 実存・心理・宗教
犯罪者は裁判や刑罰を受けることによって、「自分はあんなことをすべきでなかった」「被害者に申し訳ない」と反省するよりも、「運が悪かった」「まずいことになった」と感じるものである。多くの場合、これが本音である。ニーチェは、犯罪者には良心の呵責が見られるものではないと述べている。哲学者とは、一般的に世の中で大声で言ってはならないことを言ってしまう人種であるが、ニーチェは特に言ってはならないことを言ってしまった哲学者である。永井均氏は、ニーチェの理論はいかなる意味でも現代社会の役に立たないと述べている。その通りである。

しかしながら、役に立たないものには、役に立たないなりの役立たせ方もある。それは、根本的な解答があると信じて議論している真っ只中に、そんな解答などどこにもないという解答を示すことである。根本的な解答があると考えている代表的なものが「修復的司法」の理論であるが、これは加害者が罪の重さに気づいて反省と償いの念を深めることを目的としている。しかし、被害者の前で頭を下げた加害者が再び犯罪に走ってしまったという例も多い。ここで最も割を食うのは、振り回されてばかりの被害者である。立ち直りに理解を示して更生を期待した挙句に裏切られるのであれば、最初から期待などしないほうがましである。

「憎しみからは何も生まれない。だから加害者を赦さなければ被害者も幸せになれない」。このような理論は、根本的な解答があると信じる立場からは、非常に説得力がある。しかし、ニーチェに言わせれば、これも屈折したルサンチマンである。憎しみからは何も生まれないことが事実であるとして、赦すことからは何かが生まれるのか。赦した挙句に裏切られて苦しむ、裏切られないか不安で苦しむ、本当に赦して良かったのか自問自答して苦しむ、これは人間として当然である。しかし、赦すことは正しいというルサンチマンは、この哲学的懐疑を封印させる。憎しみだけでは何も生まれないのは確かであるが、そもそもどのように頑張ったところで何も生まれないものは何も生まれないのだから、このような堅苦しい理論にがんじがらめになるのは息が詰まる。犯罪者は本気で反省などするものではない、この恐るべき端的な事実を直視するだけで事態はかなりスッキリする。

被害者の裁判参加を初めとする犯罪被害者保護法制の最大の障害が、加害者の更生という価値である。いくら「加害者が被害者と向き合うことが最大の更生になる」といったところで、加害者の主目的は反省ではなく刑を軽くすることであり、隙あらば罪を否認して無罪を勝ち取ろうとする行動から逃れることができないとすれば、この障害は消えない。近代刑法の目的刑論の絶対に譲れない大前提は、罪を犯した人間は絶対に更生できるという点にある。これに基づく死刑廃止論が強硬なのも、更生の可能性を永遠に奪ってしまうことが論理的に絶対に認められないからである。しかし、ニーチェに言わせれば、そのような可能性など幻想である。「加害者が厳罰に処せられることが何よりの救いになる」と考えている被害者に対して、「加害者が更生することが何よりの救いになる」と考えるのが正しいという理論を押し付けるのは、端的に余計なお世話である。

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