犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

論理と理屈

2007-08-04 13:19:38 | 国家・政治・刑罰
論理学という分野も、学問の細分化により、技術的な記号論理学を指すものになってしまった。この能力を試す典型的な試験が、法科大学院入学のための「適性試験」である。例によって、10枚のトランプの中で絵札が何枚、偶数が何枚、スペードが何枚、といったクイズであり、事務処理能力がシビアに判定される試験である。現在行われている司法制度改革は、日本の法曹人口を大幅に増やすものであるが、ここでは人間を扱うべき法律学が「論理」ではなく「理屈」に堕してしまった。入口では適性試験、出口では要件事実論、これでは人間が人間であるゆえの苦悩など直視できない。

ヘーゲルの語る「論理」とは、単なる思考の論理ではない。存在の論理である。そして、存在と思考の関係を明らかにするのが論理学である。論理学とは、存在の論理、すなわち存在のあり方を究明する学問である。「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」という有名なフレーズは、何かの主義主張を論証するために必死になってロジックを組み立てる思考方法に対する強烈な皮肉である。理念とは、抽象にすぎないSollenにとどまっているほど無力なものではない。理念と現実とが切り離せないのであれば、結論を先取りして、後からそれを正当化する行動などあり得ない。現実の問題は既に論理的に解決しているのであって、すでに解決しているものは、今さら論理を補強して解決するということが考えられないからである。

ヘーゲルの「論理」とは、論理学をベースとして自然・社会・精神の全体について述べられた壮大な哲学体系である。この論理の核が弁証法であり、事物の展開、発展の論理としては広く理解されてきたが、それを認識する方法としてはあまり理解されてこなかった。ヘーゲルの家族論における「人倫」というキーワードなどは、非論理的であるとの評価がつきまとい、この流れで「絶対精神」という概念を捉えてしまうと、単なる宗教に見えてしまう。これでは存在の論理は見えてこない。論理が理屈っぽいと感じられるならば、それは存在の論理を見落としていることによる。論理とは理屈をもその中にスッポリと含むものである。

法科大学院は、「理論と実践の架橋」という鳴り物入りのコンセプトで開始された制度であり、21世紀の日本の裁判制度の方向性を決めてしまう制度である。しかし、その理論と実践の架橋とは何物なのか。法学者は、人間の現実の苦悩から解放された紙の上の世界で、「1発の銃弾で2人を殺した場合には殺人罪はいくつ成立するか」といった研究に忙しい。実務家は、検察官のほうは有罪判決を取るのに忙しく、弁護士は無罪判決を取るのに忙しい。ここで、理論と実践の架橋などといっても、法律学がますます「論理」ではなく「理屈」に堕するのは当然のことである。実務家は、それぞれ自分にとって有利な理屈を限りなく引っ張り出して、勝つためのロジックを持ち出して勝負をすることになり、法学者はそのために利用される。これでは、いったい何のための架橋なのかわからない。何のための人生なのかわからない。

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