犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第14章・第15章

2007-08-05 13:16:46 | 読書感想文
第14章 基本法・第15章 基本計画

被害者参加制度と付帯私訴制度に反対する立場は、このような制度は「真の解決にはならない」「根本的な解決にはならない」と述べる。それでは、真の解決、根本的な解決とは何か。こう問われると、反対派も言葉に詰まるのが通常である。これは政治的な意見の巧拙ではなく、言語の限界である。この限界は、「犯人が処罰されても愛する人は帰ってこない」という言葉において端的に示される。すなわち、真の解決、根本的な解決を実現しようとするならば、これは殺された人を生き返らせること、犯罪がなかった以前の状況に戻すこと、これ以外のことではあり得ない。

形而下におけるあらゆる制度は、開始してみなければそのメリットもデメリットもわからない。被害者参加制度と付帯私訴制度も同様である。始める前からあれこれ反対しても仕方がない。想定外の事態が起きて、後になって慌てて了解の構造を作り上げるのがこの世の常である。当初の制度趣旨はどうであれ、それぞれの被害者がそれぞれの方法によって利用することにより、いかなる制度もそれなりに軌道に乗ることになる。真の解決にならないのは、被害者参加制度や付帯私訴制度のせいではない。仮説と検証のシステムは、もともと真の解決などという概念には馴染まないものである。

被害者参加制度と付帯私訴制度によったとしても、犯罪被害者が求めているものは得られないという見通しは、ある意味当然のことである。それぞれの事件における加害者の対応如何によって、被害者が求めているものに少しでも近づくこともあれば、遠ざかることもある。これは、制度設計のせいではない。もともと裁判制度に必然的に伴う限界である。すなわち、犯罪という容易に語り得ぬ哲学的な現象について、無理やり法律単語で語ったことにしてしまう裁判制度の限界である。法廷が混乱するから反対である、法廷が報復の場になってしまうから反対であるといった意見は、法治国家万能主義の独善にすぎない。

被害者が犯人に対し、「息子を返せ」「娘を返せ」と激怒し、犯人を沈黙に追い込む。あえて真の解決、根本的な解決という概念を用いるならば、犯人をこの沈黙の前まで連れてゆくことが、人間になし得る行為の限界である。これに対し、このような沈黙では真の解決にならないと述べ、心のケアや金銭的な補償を押し進めるべきだと述べるに至っては、頭でっかちの抽象論による逆立ちである。被害者の人生全体に与える効果を見ようとせず、一瞬の法廷の秩序ばかりを見ようとするのは、知識汚染による全体像の見失いである。部分解を全体に広げることはできない。

近代刑法の原則を絶対化する立場からすれば、被害者参加制度や付帯私訴制度は容易に受け入れられるものではないと主張される。そうだとすれば、近代刑法の原則も絶対的なものではなく、単に時代によって異なる相対的な原則だと言うしかない。近代刑法は「被告人が1人の人間として被害者と向き合うこと」を軽視したが、その弊害が目立ってきたならば、それを見直してみようという動きが出るのは当然の話である。被害者が起訴状の中の文字に追いやられ、証拠方法としてしか扱われなかったことの不当性は、近代刑法の原則によって必然的にもたらされたものである。そうであれば、近代刑法の原則のほうを修正すれば済む話である。

岡村弁護士も、もし犯罪被害に遭っていなければ、そのまま近代刑法の原則が絶対的なものであると信じて疑っていなかった。この事実が証明しているように、いかなる制度も客観的、絶対的に存在しているものではなく、個人の主観に還元される。近代刑法の原則を絶対化する立場は、その原則を守ろうとすることによって、その原則が絶対的であると信じている自分自身を守ろうとしているにすぎない。そうでなければ、そこまで必死になって被害者参加制度と付帯私訴制度の導入に反対する理由がないからである。

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