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“男のためのガーデニング”改め

湖南の巨樹を巡る1~「弘法杉」と「ウツクシマツ」~

2020-10-17 17:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
<湖南市吉永の「弘法杉」>

旧東海道を横切る大砂川は、道の上を流れる天井川となっており、堤防に掘られたトンネルは「大沙川の隧道」または「吉永のマンボ」と呼ばれているそうです。
大砂川は、奈良時代に奈良の寺院や石山寺の造営時にこの辺り山の木々が切り出され、山が禿山となってしまい、川底に土砂が流れ込んだといいます。
溜まった土砂によって周辺の地面の高さより川床が上昇していき、岡のような堤防の間を流れる天井川になったと伝えられています。

かつて東海道を旅する人々は天井川に出会うと、土手を登って小橋や浅瀬を渡って川越していったといい、道中の難所の一つになっていたとされます。
天井川は全国に存在するといいますが、そのうちの半分は関西地方にあり、全体の1/3は滋賀県にあるといいますから驚きです。



明治になって東海道の整備が進み、天井川に隧道を掘って陣馬の通行の便宜を図ることになり、大沙川隧道は明治17年(1884年)に県下最初の築造トンネルとして築造されたそうです。
花崗岩の切石積みで造られた半円アーチ型のトンネルは、明治の味わいを残し、地元では「吉永のマンポ」と呼ばれているようです。
「マンポ」という聞きなれない言葉は、語源は定かではなく、湖南地方では「マンポ」、湖東地方や三重県では「マンボ」、愛媛・岡山・兵庫県では「マンプ」と呼ばれていると書かれているものがあります。



吉永のマンポの提上には、「弘法杉」という樹高26m・幹周6m・樹齢750年とされる巨樹があり、これが湖南市を訪れた目的でもありました。
「弘法杉」と呼ばれる由来は、“空海がこの地方を通過した時に2本の木を植えた、また空海が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽を出した。”との伝説によるものとされます。



“箸を差しておいたら芽が出て育った”とか“空海に関する伝説”は各地にあるのが興味深く、お大師さんが如何に広く信仰されていたかの証ともいえます。
弘法杉には「二本杉」という別称があり、もとは2本あったが大風で倒れ、里人が植え直した杉のうちの1本も1773年の台風で倒れたと伝えられているようです。
樹の前には祠が祀られ、中には弘法大師像や古い石碑が祀られており、綺麗に整備されています。



堤防の上の道は狭く、草木も多く生えているため、弘法杉の全景が見通せる場所はありませんでしたが、ゴツゴツとした力強い幹は、6mの幹周以上の迫力を感じます。
樹幹はこんもりと茂り緑豊かで、樹勢の勢いを感じることもでき、“隧道の提上にしてこの巨樹”。実に見応えがあります。



幹を見上げてみても、力強い木肌から生命力が伝わり、上部には新芽が幾つか出てきていることからも、この樹の樹勢の良さを感じ取ることが出来る。
隧道のなかった江戸時代に東海道を旅した人は、土手を登って大砂川を渡る時、このスギを見て安堵したり、手を合わせる人も多かったことでしょう。



<湖南市「平松のウツクシマツ自生地」>

国の天然記念物「ウツクシマツ」のことを知ったのは、名神高速・菩提寺上りパーキングで偶然見かけた「美し松」の独特の姿に出会った時のことでした。
湖南市平松にある標高227.6mの美松山の南東斜面に自生するウツクシマツは約200株あるといい、自然状態で自生地を形成しているのは、この「平松のウツクシマツ自生地」だけだという。

ウツクシマツはアカマツの変種とされており、砂礫の混ざった赤土の土質や浅い土壌、一部に岩盤が露出する特殊な土質の影響と考えられてきましたが、近年の研究では劣性遺伝によるものだと判明したようです。
幾世代にもわたって劣性遺伝を繰り返した結果、ウツクシマツの遺伝子が濃くなり、平松のウツクシマツ自生地が形成されていったのでしょう。



ウツクシマツは、根元に近い部分から枝分かれした複数の幹が上方へ伸び、背が高くなる特徴があるといい、斜面全てがマツの群生に覆われている。
大きいものは幹周2.1m・高さ12.7m・樹齢200~300年ほどあるといいますが、広場の手前にあるのが、一般的にはこの自生地のシンボルツリーとなる樹といえます。



しかし、このシンボルツリーはマツ枯れの症状でも出ているのでしょうか、針葉が色あせてきているように見えます。
現在、自生地内のウツクシマツが減少してきているといい、湖南市は「保全活用計画」を策定し保護と活用を進めているといいますので、何とか未来に向けて残していって欲しいと思います。





湖南市の調査では平成31年度時点で、枯れているもの・部分枯れした部分のみを伐採したものも含めてウツクシマツは128本になっているといいます。(昭和55年当時は254本)
ウツクシマツは、古くは平安時代の藤原頼平の民話に残り、江戸時代後期の絵師・歌川広重は『東海道五十三次』の水口宿で美松山を描き、白洲正子さんは「近江山河抄」の“鈴鹿の流れ星”で次のように書かれています。
“天然記念物の美し松は、平松の山の上にあり、根元から何十株にもわかれて、傘の形に密生しているのは、目ざめるような眺めである。”





美松山の斜面に生えるウツクシマツを眺めていると、何とも心地よく気持ちが安らいでいくのが分かります。
国の天然記念物の自生地ですから、必要以上に手が入っていず、基本的にはウツクシマツだけの森となっているのも景観の良さを引き立てている。





平松は東海道の宿場では石部宿~水口宿の間にあり、東海道を旅する人が立ち寄ることもあったでしょうし、浮世絵などをガイドブックのように見て美し松に思いをはせた方もおられたことでしょう。
歌川広重は「隷書東海道五十三次」の中で、「水口・平松山美松」として美し松を描いています。
江戸時代や古くは平安時代から、基本的には同じ風景がここにはあると言えます。


歌川広重「水口・平松山美松」



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