僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都府亀岡市 菩提山 穴太寺~

2018-03-16 18:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 穴太寺は、旧丹波国・現在の亀岡市にある西国三十三所巡礼の第21番札所となる天台宗の寺院となります。
思い立ったように穴太寺を訪れたのは、本堂の拝所に掲げられた懸仏を写真で見てからで、是非ともその懸仏を見てみたいという思いからでした。

懸仏は円板に浮彫の仏像を付けたもので、“円板=神鏡に仏像を付けた”神仏習合の証になるものと考えられています。
“日本の八百万の神々が様々な仏の化身として現れた”とされる本地垂迹思想によって懸仏は盛行していったといわれており、穴太寺ではその名残の懸仏が3種見られます。



穴太寺の起源としては、奈良時代後半の705年、文武天皇の勅願によって大伴古麻呂が薬師如来を本尊に安置し建立したことが始まりと伝わります。
戦国時代の丹波地方は明智光秀の所領となりましたが、織田信長の命により丹波攻略にあたっていた光秀が亀山城を築いた際には短期間での築城が必要であったことより、穴太寺からも部材が徴発されたと伝わります。



そんな経緯もあって伽藍は荒廃してしまったものの、17世紀中期になって再興が始まったとされます。
しかし、1728年に本堂を焼失。1737年には再び再興を果たした歴史があるようです。



穴太寺は田舎道を進んだ先の平坦な場所にありましたが、道中の道は細くカーブの多い道になっており、こんなところに寺院があるのだろうか?と不安になるような道中でした。
少し開けた門前町の通りまで来ると、道に面した場所に仁王門が見えてきましたので一安心です。
金剛力士像が祀られた仁王門は江戸時代中期の再建とされていますが、一説にはかつてあった楼門の古材を利用しての再建ではないかともいわれているようです。



鐘楼は1759年の建立といわれており、古色感のある古寺ならではの趣のあるものです。
さっそく鐘を撞かせてもらおうと思いましたが、この鐘は撞けないようですね。
あまりにも民家に近い場所に寺院があることも影響しているのかもしれません。



ところで、鐘楼の天井裏にはたくさんの千社札が貼られていましたが、あんな高い所へどうやって貼ったのでしょうか。
脚立か梯子でもなければ貼れそうにない高い位置に貼られているのです。
また、鐘楼の向かいには1804年に再建されたという多宝堂があり、この多宝堂は亀岡市では唯一の木造塔だそうです。



多宝堂の内部には四天王が立ち、来迎壁を設けて、須弥壇に釈迦如来と多宝如来が安置されていると書かれてありました。
多宝如来は東方の宝浄国の教主とされていて多宝堂に安置されることが多いようですが、内部拝観可能な多宝堂というのはあまり記憶にありませんので、いつかその機会に恵まれたいものですね。



本堂(観音堂)は1735年に再建されたという建物で西国巡礼の札所寺院特有の雰囲気が漂います。
拝所にも巡礼寺院独特の活力のようなものが感じられ、扉にはこの寺院の鎮守の神様の菅原道真にちなんだ「梅鉢紋」の形の窓が設けられています。
境内には道真公を祀る鎮守堂(天満宮・稲荷社)がありますので、道真公への信仰もあるようです。





拝所の向拝の内側にも膨大な千社札が貼られていますので、どうしたらあんなに高い位置に貼れるのかと悩んでしまいます。



この拝所に扁額や奉納額と並んで3種の懸仏が掛けられていました。
懸仏は神仏習合的な色合いが濃かった故に、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって失われたものが多いようですが、この穴太寺にはよく残っていたものです。
三室戸寺にも懸仏が残されていましたので、西国三十三所の札所寺院には時代に屈しない信仰の強さがあったのかとも思います。



3種の懸仏が意味するところは分かりませんが、普通に考えると内陣に祀られている御本尊の「薬師如来」を挟んで、左に札所本尊の「聖観世音菩薩」、右にお前立の「聖観世音菩薩」と考えた方がよいようです。
上の懸仏は拝所の左に掛けられていましたので、札所本尊の「聖観世音菩薩」を表しているのでしょう。

と考えると中央に掛けられているのは御本尊の「薬師如来」に見立てたものといえます。
穴太寺の拝所には鰐口が3ヵ所あって、それぞれの如来様にお参り出来るようになっていました。



一番右に掛けられているのがお前立の「聖観世音菩薩」になりますが、札所本尊の「聖観世音菩薩」の懸仏との違いはよく分かりません。
これはこの懸仏をお前立の聖観世音菩薩に見立てていることから同じようなお姿になっているのかと思います。



内陣には須弥壇には3つの厨子がありますが、「薬師如来」「聖観世音菩薩」は秘仏になっているため扉は閉じられており、お前立の「聖観世音菩薩」が扉の隙間からわずかに見えるだけでした。
興味深いのは、須弥壇の厨子の前に神鏡が安置されていたことで、この事からも穴太寺には神仏習合の色濃く残されていることを認識出来ます。

左の脇陣には「不動明王立像」が安置されており、右の脇陣には「阿弥陀如来立像」と共に見た瞬間に激しい衝撃を感じてしまった「釈迦如来大涅槃像」が横たわっておられます。
涅槃像は撫でると御利益がある諸病厄除けの「なで仏」とされていて、寺の方から“布団をめくって撫でて下さい。”と言われて何ヶ所か自分の弱い箇所を撫でさせていただきました。
しかし、台座の上で布団をかぶって寝ておられるお釈迦様の姿には怖さを感じるほどの強烈な印象を受けてしまいます。


観光ポスターより


パンフレットより

「釈迦如来大涅槃像」は鎌倉時代作の像長116cmとされる仏像ですが、明治29年(1896年)に本堂の屋根裏で見つかったといいます。
もしかすると何らかの理由があって隠されたのかもしれませんね。

札所本尊の「聖観世音菩薩」には「身代わり」の霊験譚がある慈悲深い観音様と伝わり、「釈迦如来大涅槃像」には撫でると人々の病や苦しみを受け止めてくださる霊験があるとされます。
そんな御利益を求める参拝者に永年の年月をかけて「釈迦如来大涅槃像」は撫でられ続けてきたのでしょう。
人々の想いを込めて撫でられてきたお釈迦様の躰は艶々とした光沢で輝いています。


コメント
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