僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都市西京区 西山 善峯寺~

2018-03-26 18:50:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 善峯寺は、釈迦岳の支峰の善峯の山腹一帯に多くの堂宇を構えている古刹感溢れる寺院で、竹林が連なる細い山道を登っていった先にありました。
「十輪寺」(業平寺)という寺院を過ぎてからさらに進んだ先に善峯寺の参道の入口となる赤い橋が見えてきましたが、この付近には駐車場がなかったため通り過ぎて山門前パーキングまで行くことになりました。
正式な参拝道から歩いて登られる方も多いだろうと思いますが、如何せん車が停められないのでこれは断念です。

善峯寺は西国三十三所巡礼の第20番札所となっている寺院であり、1029年に源算上人によって創建された寺院だとされます。
源算上人は、比叡山横川の恵心僧都(源信)に師事された方とされていることもあって、天台宗系の善峰観音宗の寺院になっています。



鎌倉時代には慈鎮和尚(慈円・天台座主)が住職を勤め、多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれるようになり、室町時代には僧坊52を数える大寺院になったとされます。
応仁の乱によって大半の伽藍を焼失しまいますが、江戸時代には徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院(3代家光の側室)の寄進により再興されたといいます。



駐車場から少し登ると本来の参道から来た人が入山する東門があります。
一旦東門から出て、もう一度入り直し、つづら折りの善峯古道を登ってきた雰囲気だけを感じさせてもらいます。



善峯寺でまず驚くのは、その山門(楼門)の見事さです。
1716年建立といわれる山門の堂々とした力強い姿には圧倒される他ありません。

金剛力士像は運慶作で源頼朝寄進と伝えられていますが、力士像はガラス張りのため反射してよく見えない。
山門の右側には「西山宮門跡」の門札が掛けられており、かつては官寺であったことが分かります。





開山当時の寺号は「良峯寺」だったとされますが、1192年に後鳥羽天皇より現在の「善峯寺」の寺号が下賜されたと伝わります。
扁額の下にしめ縄を付けた門の迫力のある門構えには威圧感があり、何とも堪えられない感慨を受けます。



山門から入山するとほぼ正面に観音堂(本堂)が見えてきて、今度は山裾にある古刹寺院の良さに感じ入ります。
山門と観音堂の間に大きな燈籠がありましたが、この燈籠の火袋の部分には四天王が彫られてある立派な灯篭でした。



まず参拝の前に身を清めようと手水舎へ向かいましたが、何とこの手水には全て竹が使われています。
何とも風流というか優雅な手水に感動してしまい、2度も手水を繰り返してしまいましたよ。
寺院への道中に竹林が多かったので、この辺りの竹は名産品になっているのかもしれませんね。



観音堂は1692年に桂昌院の寄進により再建されたもので、古色感のある入母屋造の堂です。
広い境内を歩いている間にだんだんと参拝者が増えてきたのはやはり西国三十三所の巡礼寺院ゆえのことなのでしょう。





拝所で線香をあげてお参りしたあと外陣に入りますが、官寺だっただけあって奉納額には神社に掛けられているような絵柄のものが見受けられます。
こうして見ると朝廷とのつながりが深く、神道の影響を受けた寺院だった印象が感じとれます。



須弥壇に祀られているのは、本尊「千手観音」(仁弘法師作)と脇本尊「千手観音」(源算上人作)ですが、厨子は閉じられたままです。
厨子の左右に二十八部衆と思われる仏像が安置されていて、仏像の数を数えてみましたが数は合わずでしたので詳しいことは分かりません。

内陣で驚くのは厨子の前に神鏡が祀られていたことでしょうか。
神仏習合の名残りが善峯寺にも残されているということなのでしょう。


パンフレットより

参拝順序が逆になってしまいましたが、鐘楼堂(つりがね堂)へ行って鐘を撞かせていただきました。
この鐘楼堂は、1685年 徳川5代将軍綱吉公の厄年に母である桂昌院の寄進により建立されたものだとされています。



厄除けの鐘の札が掛かっており、梵鐘の下には南無不動明王の石柱があります。
撞いてみると歪のない美しい響きがして、余韻も非常に長い音色が山の麓に響きます。



鐘楼堂の横には護摩堂(1692年 桂昌院により建立)があり、障子が少しだけ開いています。
堂には“不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉”の五大明王が祀られていました。
この五大明王像は江戸期以降の仏像なのか、やや新し感のある仏像です。





護摩堂の建てられている一角には鐘楼堂・多宝塔・経堂などが並び建ち、国の天然記念物である「遊龍の松」や「桂昌院しだれ桜」の巨木がある寺院の中心部になっています。
多宝堂は1621年に建立され、重要文化財となっている建物で本尊として愛染明王が祀られているそうです。



天然記念物の「遊龍の松」は、枝は低く横に伸びていて龍が遊ぶような姿であることから名が付けられており、全長37mともいわれるこの松は樹齢600年以上といわれています。
残念ながら、あまりにも松の拡がりが長すぎて全景を写真には収められませんでしたけどね。



善峯寺の堂宇はほぼ桂昌院により再建されているのですが、この経堂も1705年に桂昌院によって再建されています。
傅大士を奉安して、鉄眼版一切経が納められていましたが、現在は絵馬奉納所となっているようです。





境内を山に向かって少し石段を登った所にある釈迦堂には開山・源算上人作と伝えられている「石仏釈迦如来坐像」が祀られています。
石仏釈迦如来は釈迦岳の頂上に元々祀られていて、堂宇が焼けて雨風にさらされていたものを1878年にお遷りされたものといわれています。

最初は薬師堂に安置されていたのですが、1885年に釈迦堂を建立して本尊として祀られたとされます。
石仏が堂内の須弥壇に祀られているのは少し珍しい感じがして、違和感を感じてしまいます。





境内の堂宇には他に阿弥陀堂がありますが、こちらは工事中でホロを被った状態です。
しかしながら、阿弥陀堂までの道はとても味わいのある石畳の参道になっていました。



更に奥の院を目指して登っていくと「出世薬師如来」に石柱があり、その奥には稲荷社があります。
南天の赤い色が少し見えますが、善峯寺は春は桜・夏はさつき、紫陽花、百日紅・秋は紅葉・冬は南天、さざんか、椿と四季折々の花が咲く、花の寺院でもあるようです。



最後にお参りしたのは薬師堂になりました。
薬師堂は1701年に建立で、昭和63年に現在地に移築された御堂ということです。

桂昌院は徳川家光の側室で5代将軍・綱吉の生母であった人物ですが、出自は諸説はあるものの高い身分の出ではなかったようです。
出生はともかくとしても将軍の生母にまで上り詰めた桂昌院にあやかって、この薬師如来は出世薬師如来と云われているそうです。





薬師堂の前から観る眺望は雲がかかっていたとはいえ、素晴らしいものでした。
京都盆地の向こうの雲の隙間に見えるのはもしや比叡山でしょうか?いずれにしても絶景でした。



西国三十三所巡礼は未だ道半ばです。
ゆっくりと一寺一寺、ライフワークのようにして参拝していこうかと考えています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする