「日本三大仏」といえば、まず奈良・東大寺の『奈良の大仏』、鎌倉・高徳院の『鎌倉大仏』の2つの大仏様が思い浮かびます。
では、あとの1大仏は何?ということになりますが、実は正式には決められてはいないようです。
「日本三大仏」は時代によって変遷があったといわれますが、現在は岐阜の正法寺の『岐阜大仏』を入れて「日本三大仏」としているようです。
(富山県高岡市の「高岡大仏」をカウントすることもある)
『岐阜大仏』を祀る岐阜・正法寺大仏殿は、山頂に岐阜城がある金華山(旧名:稲葉山)の麓に建てられた黄檗宗の寺院になります。
江戸時代に日本に伝わった黄檗宗の寺院ですから、開山は1692年と江戸時代になり、大仏の開眼は1832年のこと。
第十一代惟中和尚が歴代の大地震および大飢饉の災霊の祈願をたて、大釈迦如来像を建立するために25年をかけて托鉢に歩いたと伝わります。
托鉢に歩いた地域は遠く信越地方にまで及びましたが、惟中和尚は大仏殿の建立を待たずして亡くなってしまいます。
その後、惟中和尚の意志を継いだ第十二代肯宗和尚の時代に完成した大仏様が現在に伝わるものとされています。
本堂は黄檗宗の寺院らしい中国風の建築物で、上階へ行くほど幅が狭くなっています。
2階の中央部に「花頭窓」がありますが、開放時は大仏様の顔が見えるように設計されているのかもしれませんね。
この御堂に内に像高14m近い「大釈迦如来像」が納められていますので、堂内の目一杯に大仏様が安置されているということになります。
本堂の入口の受付には寺院の息子さんと思われる小学生の男の子が番をしていました。
寒そうな場所で毛布に膝をくるんで参拝者への対応をしていていましたが、それも将来のご住職としての修行になるのかもしれませんね。
堂内に入ると“うわぁ~”と思わず声が出てしまう大きな大仏様が目に入ってきます。
寺院の案内によると、像高:13.7m、顔長さ:3.63m、目長さ:0.66m、耳長さ:2.12m、口幅:0.70m、鼻高さ:0.36mとまさしくキングサイズの大仏様です。
「奈良の大仏」が像高:14.98m、「鎌倉大仏」が11.35mですから日本三大仏の中でサイズ的にはNo2になる大きさです。
また「岐阜大仏」は奈良や鎌倉大仏が金銅仏なのに対して、木心乾漆造り(乾漆仏)ですので、「奈良の大仏」とは随分と印象が異なります。
それにも増して驚くのが、この大仏様の何とも優しげな表情ではないでしょうか。包み込まれるような慈愛に満ちています。
堂内は大仏様を中心として堂内をひと回り出来るようになっていて進んでいくと、大仏様の背面には3枚の「地獄絵」が掛けられていました。
1枚目には三途の川の「正塚婆(しょうづかのばば)」が亡者の着物を剥ぎ取り、「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)」に生前の行いを写され大王に裁かれる亡者達が描かれています。
2枚目には“炎に包まれて焼かれる亡者”や“水に沈められて龍に喰われる亡者の姿、体に釘を打たれている亡者の姿まであります。
地獄絵に描かれる厳しい責め苦を受ける亡者達の姿は、絵によって多少の違いはあれどもいつ見ても怖しい光景です。
3枚目にも“血の池に沈められ、その血を飲まされる亡者”や“鳥に喰われる亡者”がいます。
賽の河原では“積み上げた小石を鬼に崩される子供達”がありますが、地蔵菩薩が救済に来てくれたようです。
絵の上部には極楽浄土へ導かれる亡者が極楽橋を渡っていく姿があり、空からは天女が迎えにきていますね。
大仏様の両脇の壁には五百羅漢が並んでいます。
この五百羅漢は過去の大地震で震災を免れたものが保管されているとされ、数は揃ってはいないようですが、 錚錚たるお姿です。
大仏様の背面の地獄絵を見て正面まで戻ってくると、そこには何とも優しげな表情の大仏様が待ち受けてくれています。
結んだ“説法印”が「あなたは今のままでいいんだよ。万事それで大丈夫なんだ。OKなんだよ。」と言いたげなメッセージに思えてしまいうのは大仏様の表情からくる感情なのでしょう。
上から見下ろすその尊顔には、微笑みかけるような優しさに悪い気持ちや行いが許されるような包容力を感じ、何ともいえない安堵感があります。
正法寺の境内には戦国時代の作といわれる「地蔵菩薩像」が地蔵堂に祀られてあり、その横には石造りの多宝塔が残されています。
元々は正法寺の近くにある「伊奈波神社」に奉安されていたものが、明治の神仏分離令の難を逃れるため正法寺に移されたものとありました。
寺院にはいろいろな姿があるかと思いますが、正法寺は人の気持ちを穏やかにさせてくれる寺院だったとの強い印象が残ります。
では、あとの1大仏は何?ということになりますが、実は正式には決められてはいないようです。
「日本三大仏」は時代によって変遷があったといわれますが、現在は岐阜の正法寺の『岐阜大仏』を入れて「日本三大仏」としているようです。
(富山県高岡市の「高岡大仏」をカウントすることもある)
『岐阜大仏』を祀る岐阜・正法寺大仏殿は、山頂に岐阜城がある金華山(旧名:稲葉山)の麓に建てられた黄檗宗の寺院になります。
江戸時代に日本に伝わった黄檗宗の寺院ですから、開山は1692年と江戸時代になり、大仏の開眼は1832年のこと。
第十一代惟中和尚が歴代の大地震および大飢饉の災霊の祈願をたて、大釈迦如来像を建立するために25年をかけて托鉢に歩いたと伝わります。
托鉢に歩いた地域は遠く信越地方にまで及びましたが、惟中和尚は大仏殿の建立を待たずして亡くなってしまいます。
その後、惟中和尚の意志を継いだ第十二代肯宗和尚の時代に完成した大仏様が現在に伝わるものとされています。
本堂は黄檗宗の寺院らしい中国風の建築物で、上階へ行くほど幅が狭くなっています。
2階の中央部に「花頭窓」がありますが、開放時は大仏様の顔が見えるように設計されているのかもしれませんね。
この御堂に内に像高14m近い「大釈迦如来像」が納められていますので、堂内の目一杯に大仏様が安置されているということになります。
本堂の入口の受付には寺院の息子さんと思われる小学生の男の子が番をしていました。
寒そうな場所で毛布に膝をくるんで参拝者への対応をしていていましたが、それも将来のご住職としての修行になるのかもしれませんね。
堂内に入ると“うわぁ~”と思わず声が出てしまう大きな大仏様が目に入ってきます。
寺院の案内によると、像高:13.7m、顔長さ:3.63m、目長さ:0.66m、耳長さ:2.12m、口幅:0.70m、鼻高さ:0.36mとまさしくキングサイズの大仏様です。
「奈良の大仏」が像高:14.98m、「鎌倉大仏」が11.35mですから日本三大仏の中でサイズ的にはNo2になる大きさです。
また「岐阜大仏」は奈良や鎌倉大仏が金銅仏なのに対して、木心乾漆造り(乾漆仏)ですので、「奈良の大仏」とは随分と印象が異なります。
それにも増して驚くのが、この大仏様の何とも優しげな表情ではないでしょうか。包み込まれるような慈愛に満ちています。
堂内は大仏様を中心として堂内をひと回り出来るようになっていて進んでいくと、大仏様の背面には3枚の「地獄絵」が掛けられていました。
1枚目には三途の川の「正塚婆(しょうづかのばば)」が亡者の着物を剥ぎ取り、「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)」に生前の行いを写され大王に裁かれる亡者達が描かれています。
2枚目には“炎に包まれて焼かれる亡者”や“水に沈められて龍に喰われる亡者の姿、体に釘を打たれている亡者の姿まであります。
地獄絵に描かれる厳しい責め苦を受ける亡者達の姿は、絵によって多少の違いはあれどもいつ見ても怖しい光景です。
3枚目にも“血の池に沈められ、その血を飲まされる亡者”や“鳥に喰われる亡者”がいます。
賽の河原では“積み上げた小石を鬼に崩される子供達”がありますが、地蔵菩薩が救済に来てくれたようです。
絵の上部には極楽浄土へ導かれる亡者が極楽橋を渡っていく姿があり、空からは天女が迎えにきていますね。
大仏様の両脇の壁には五百羅漢が並んでいます。
この五百羅漢は過去の大地震で震災を免れたものが保管されているとされ、数は揃ってはいないようですが、 錚錚たるお姿です。
大仏様の背面の地獄絵を見て正面まで戻ってくると、そこには何とも優しげな表情の大仏様が待ち受けてくれています。
結んだ“説法印”が「あなたは今のままでいいんだよ。万事それで大丈夫なんだ。OKなんだよ。」と言いたげなメッセージに思えてしまいうのは大仏様の表情からくる感情なのでしょう。
上から見下ろすその尊顔には、微笑みかけるような優しさに悪い気持ちや行いが許されるような包容力を感じ、何ともいえない安堵感があります。
正法寺の境内には戦国時代の作といわれる「地蔵菩薩像」が地蔵堂に祀られてあり、その横には石造りの多宝塔が残されています。
元々は正法寺の近くにある「伊奈波神社」に奉安されていたものが、明治の神仏分離令の難を逃れるため正法寺に移されたものとありました。
寺院にはいろいろな姿があるかと思いますが、正法寺は人の気持ちを穏やかにさせてくれる寺院だったとの強い印象が残ります。