
坂本には、後漢の孝献帝の子孫で日本に帰化した三津首(みつのおひと)の一族が久しく栄えていたそうで、その首長であった百枝という方が子供に恵まれず、比叡山の麓に一週間の願をたて草庵に篭ること5日目に瑞夢を得られ、蓮の花がふるめでたいしるしが現れて男の子が生まれたとされます。
その男の子こそが幼名を広野といい後の伝教大師 最澄となったわけですが、お生まれになった場所が坂本にある生源寺付近であったと伝わっています。

伝説ですから真偽はともかくとしてになりますが、寺院の山門の前には「開山伝教大師御生誕地(かいざんでんぎょうたいしごせいたんち)」の石碑が建てられています。
生源寺は800年ごろ最澄により建立されたとされ、比叡山延暦寺の西塔の総里坊格の寺院で、近世には一山の寺務を総括した里坊だったと寺伝にあります。


山門をくぐって境内に入ると「傳教大師御産湯井」の石碑があり、古井戸が残されています。最澄はこの井戸の水を産湯に使ったと伝わる井戸です。
横には伝教大師 最澄の童形像の銅像が安置されていました。この像は“水かけ大師”と呼ばれ水をかけてお祈りするようですね。

かつて生源寺には「破鐘(われがね)」といわれる梵鐘があったそうです。
比叡山の焼き討ちの時に、信長の軍勢が押し寄せるのを発見した古老が急を告げるために梵鐘を力の限り乱打し異変を伝えたらしいのですが、如何せん不意打ちのため比叡山は灰塵となってしまったようです。
この時にあまりにも強く打ち鳴らしたために、梵鐘にひびが入り不思議な音色になったいわれ、その音色ゆえ梵鐘は非常用の鐘として日吉大社の例祭などの合図として使用されていたそうですが、現在は坂本駅前の「坂本石積みの郷公園」に保存されています。

本堂は1595年に比叡山の僧・詮舜によって再建され、1710年に改築されたものとされています。
信長の比叡山焼き討ちは信長の悪行の印象をどうしても受けてしまいますが、焼き討ちの被害を受けた坂本地区にありながらもお寺の方は“当時の比叡山の僧たちも僧兵を集めたり等その行動に問題があった”と焼き討ち事件を受け入れるように語られていましたのが印象的です。

生源寺の御本尊は十一面観音菩薩ですが、この仏像は秘仏になっていて厨子の前にはお前立仏が安置されていました。
本堂の内陣の横の間にも仏像が安置されており、阿弥陀如来坐像などの仏像と灌仏会(かんぶつえ)に使う釈迦誕生仏・最澄の童形像などが質素に造られた間に安置されていて、実に見応えのあるものと感じました。

十一面観音(リーフレット)
生源寺には隣接して大将軍神社がありますが、お寺の方の話では“比叡山の守護神社は日吉大社で、生源寺の守護神社は大将軍神社です”とおっしゃっておられました。
御祭神は大山祗神と岩長姫神の2柱で、最澄の産土神(うぶすながみ)として最澄生誕の地の鎮守の神様のようです。


驚いてしまったのは、境内にあるスダジイの木でしょうか。
幹周5m、樹高14m 樹齢は推定で300年以上とされており、とてつもない生命力を感じさせる巨木です。

比叡山の麓で独特の文化を持つ坂本の町ですが、ここは何度も訪れてみないと分らないような深みのある場所だと思います。
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