今年も梅雨入りし、四月からはふた月と十日を過ぎようとしている。
友人たちの何人かはすでに誕生日を迎え、その年齢にまた「1」を加えている。
五十代も1/3経過に達しつつあるということだ。
人の寿命はかつては五十年、今は八十余年と言われる。
自分の父は七十で他界しているので、自分もまあそれくらいか、と思う。
しかしこの仮定はとんでもないことで、あらためて計算すると残り時間の少なさに慄然とする。
あと十七年しかない。
孔子は「四十而不惑(にして惑わず) 五十而知天命(にして天命を知る)」とのたもうた。
自分はどうか。
四十、惑いまくり、五十、ようやく惑わなくなり、かといって天命はうすらぼんやり、である。
まあ自分は「いくらか向上心のある凡人」であると思っているものの、所詮凡人は凡人。
若いころの薄っぺらな野心は影をひそめ、ちまちまと、それでも単発でも質の高い仕事を、
と、努力している。つもり。
ここのところ難易度の高い、高額な仕事の問い合わせが続いている。
良いほうに考えれば「種まき」をしてきた結果。逆に考えれば「単なる偶然」。
共通するのは「良いご縁」。
論理的ではないが、ここは先代、先先代、ご先祖様に感謝しつつ、迷わず信じて邁進していこう。
と、思っている。
友人たちの何人かはすでに誕生日を迎え、その年齢にまた「1」を加えている。
五十代も1/3経過に達しつつあるということだ。
人の寿命はかつては五十年、今は八十余年と言われる。
自分の父は七十で他界しているので、自分もまあそれくらいか、と思う。
しかしこの仮定はとんでもないことで、あらためて計算すると残り時間の少なさに慄然とする。
あと十七年しかない。
孔子は「四十而不惑(にして惑わず) 五十而知天命(にして天命を知る)」とのたもうた。
自分はどうか。
四十、惑いまくり、五十、ようやく惑わなくなり、かといって天命はうすらぼんやり、である。
まあ自分は「いくらか向上心のある凡人」であると思っているものの、所詮凡人は凡人。
若いころの薄っぺらな野心は影をひそめ、ちまちまと、それでも単発でも質の高い仕事を、
と、努力している。つもり。
ここのところ難易度の高い、高額な仕事の問い合わせが続いている。
良いほうに考えれば「種まき」をしてきた結果。逆に考えれば「単なる偶然」。
共通するのは「良いご縁」。
論理的ではないが、ここは先代、先先代、ご先祖様に感謝しつつ、迷わず信じて邁進していこう。
と、思っている。