くらぶアミーゴblog

エッセイを綴るぞっ!

しょぼしょぼ~

2004-05-19 19:58:00 | 雑記
 液晶画面を見てられない。目が痛くてしょぼしょぼです。
 どなたかもブログに書いていたのですが、数ヶ月に一回くらいの割合でしょぼしょぼが起こります。ものすっごく眠いときみたいに、まぶたが閉じよう閉じようとするんですね。でも眠くはないです。これはパソコンやりすぎなのか? 本職の方々はどうなのだろう? CRTだったらもっと辛そう。
 あ~、ダメだ。せっかくこれからあちこち行こうと思っていたのに。
 


私は誰

2004-05-19 18:23:00 | 音楽
『J'sてんてんてまり』“時空の音?”~にトラックバック。とてもいい記事で、またまたコメントにもインスパイアされました♪
 そのコメントは
>CDは、人の耳には聞こえないといわれる高音域と低音域を、カットしてあります
 というものです。多くのオーディオマニアの方々が「CDよりレコードのほうが音がいい」とのたまう理由はここが一番大きいですよね。
 同じ演奏をレコードとCDで聴き比べると、まず最初に感じるのはスピード感の違いです。レコードではドラムやパーカッション、ベースといった低音のリズム系楽器が迫ってくるように聴こえます。これはゆったりしたテンポの曲でも同じで、マニアは「音の立ち上がりが速い」という表現をします。
 これはどういうことなのか。
 楽器から音が発生する瞬間というのはとても面白くて、例えば弦を指で弾くときなどは、正確に言えば指を当てた瞬間からもう微細な音が鳴っているわけです。それから弾く。鳴る。余韻が響く。消える(止める)。となります。この出だしの微細な音というのは音楽家であってもよっぽど神経を集中しないと聴こえないはずですし、曲の中ではもちろん聴くことなど出来ません。音楽はこういう“耳には聴こえない”音の集まりです。
 演奏する人間や指揮者からすると、楽器に息を吹き込む刹那、弦をつま弾く刹那、そこまで含めて一つの音符という認識をします。そして実際の演奏は(ジャンルを問わず)単音が純粋に鳴るということはありません。押さえている隣の弦が振動して出る音とか、わざと掠れさせた管楽器の音とか、全体的にみれば他の楽器の振動によって共鳴が起こって、音符以外の音まで大量に発生させています。後ろでトロンボーンが本気でフォルテを出すと、手に持っている楽器や身体までびりびりと震えるくらいです。さらにはホールに反響する音もあります。それらの不純な音まで全て含めて“音楽”です。音の成分が多いほど生演奏に近いわけですから、我々はより感動したり興奮したりすることが出来ます。
 そして、そういう音ならぬ音の成分は、高い周波数と低い周波数にたくさん含まれています。そこをカットされるとやっぱり聴いていて違和感があるんですね。特にピアノなどはいろんな音の成分のかたまりみたいな楽器ですから、レコードで聴くとCDでは絶対に聴けない音が出てきます。
 そういえば高級なCDプレーヤーには“失われた”上下の周波数帯域を演算処理によって還元(補充)して再生するものがあります。すごいですねえ。仕組みは分からないけど、やっぱりレコードに近い音が出るらしいですよ。


ひとりコーフンするお昼

2004-05-19 14:21:25 | 音楽
『音風景日記』“音風景の誕生”~にトラックバック。ええと、正確にはそこのコメントにトラックバック。
 ただいま遅めの昼休憩中であります。
 ここのところゆっくり音楽を聴いてなかったので、レスピーギの『ローマ三部作』のレコードを聴きました。特に『アッピア街道の松』は吹奏楽で演奏したので大好きです。指揮棒を振ってエンジョイしました。昼間なのでけっこう大音量。僕のいる住居兼仕事場は、古いマンションにあります。ここは各世帯が事務所用として作られているので、周りは事務所が多いです。だから大きな音で音楽を聴いても大丈夫♪ 大きな音で聴くと、より魅力が増しますよね。
 すっかり音楽に浸ってしまい、次に小澤征爾氏が指揮したフォーレの『シシリエンヌ』を聴きました。最近買ってきたCDですが、フォルテの前に木管楽器奏者が一斉に「スーッ!」とブレスする音まで聞こえてきて興奮します。そして小澤さんというのはやっぱりすごい指揮者です。これまで耳慣れた数々のクラッシックの曲が新鮮に聴こえることが多く、この『シシリエンヌ』もある部分でファゴットがずいと前に出てくるところがあって、何度聴いても
「うわあ・・・」と声を上げてしまうんです。こういう部分は小澤さんの醍醐味ですね。
 あのメジャーな『第九』でも「ここで金管を前に出すのかい!」「ホルンこんなメロディー吹いてたんだ・・・」と友人と興奮して何度も何度も聴いていたことがあります。
 あー、面白かった。コーヒーを一杯淹れて、そろそろ仕事に戻りますか。

ひとりコーフン2へ


煩雑で、かつ悠々とした日々

2004-05-19 11:30:51 | エッセイ
『rinrinのガラスの靴はどこに』“幻のトマトの香り”~にトラックバック。
 りんりんさんが“深呼吸したくなる香りがするトマト”の話しを書いています。それを読みながら、思わずもらい深呼吸(?)をしていました。するとコメントにsoroさんが同じく「深呼吸した」と書いてらっしゃったので笑ってしまいました。目の前にトマトはないのに、りんりんさんの表現力のおかげで記憶の香りを嗅いでいたのですね。身体はいろんなことを憶えているようで、普段意識している部分なんてちっちゃなものだなあと思います。
 トマトの“記憶の香り”はかなり鮮明で、そこから膨大な量の記憶が甦ってきました。それは驚くほどです。
 
>トマトの少し青臭い香り
→井戸の脇で冷やしたトマト、スイカ
→田舎の畑、夏の陽光
→白く乾いた表土、自分より背の高いとうもろこし、草いきれ
→なすのとげが刺さる、口中で弾けるトマトの汁
→太陽熱で熱くなった小石をお腹にあてる
→おけらをからかう、鈴のようなコオロギの声
→祖母の笑顔、若い頃の父母

 最近、菜葉木策さんの『スロー・トラベル』やsoroさんの“ウォータードリッパー”で淹れるコーヒーなどを拝見しているので、心が穏やかです。勿論、日中の頭の中は、いつもの思考でいっぱい。例の段取りというやつです。
「えっと、あの原稿そろそろ書かないとな、あ、郵送するものがあったからそれを一番にしてと、ついでだから郵便局まで行って記念切手を買ってこようっと。あれ、今日はプール行く時間ないじゃんか。シャワー浴びたいなあ。何だよこのATOKは、いつまで固まってるんだ・・・」
 ひどいものですねえ。効率良く動こうとしているから、頭の中は常に次の段取り。無駄足をするとすごくもったいない時間を使ったと自分を叱責します。
 そんな中でほんのつかの間でも時間をさいて、記憶のわき上がるままに任せる、みなさんの記事から受け取ったものをちゃんと見つめてみる。これが今はとても大事なことになっています。
 こんな小さな部分を持つこともスロー・ライフかもな、なんて思っています。