熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・大蔵流狂言「禰宜山伏」

2015年01月26日 | 能・狂言
   庶民代表の太郎冠者が主役で、威張り散らす横柄な大名やインチキな坊さんとか、上に立つ人物を徹底的に茶化して笑い飛ばすのが狂言であるから、特に、峻厳な霊山で霊験を得るために厳しい修業をする修験者である山伏は、笑いの格好のターゲットである。
   一般庶民にとっては、高徳な阿闍梨であるから、中々近寄りがたき存在なのだが、狂言に登場する山伏は、何故か、判で押したようにインチキくさいへたくそなお祈りをして、益々、事態を悪化させて、笑いの対象となるのである。

   少し前に観た「蟹山伏」もそうだが、大峰・葛城で峰入りして修業を済ませたばかりの駆け出しの山伏が、国へ帰る途中に、事にあたって、大言壮語した手前へ、必死になって祈るのだが、一向に祈りの効果が発揮できずに恥をかくと言った話は、典型的な例であろうか。
   この「蟹山伏」だが、強力を連れて羽黒山に帰る途中に、蟹の精に出くわして、強力が耳を挟まれたので、山伏が祈って離させようと呪文を唱えるのだが、全く効果なく、山伏自身も耳を挟まれてしまうと言う話である。
   祈りの文句が、いつも、ボロロンボロロンとか、ボロロンボロとか、ボロンボロと言った意味不明の呪文であるので、イカサマ模様が良く分かるのだが、その扮装が、兜巾・鈴懸・水衣・括り袴の厳めしい姿であるから、その落差の激しさが、更に、可笑しみを醸し出す。
   山伏ものの狂言は、それ程多くはないのだが、登場人物も多くて派手で、一番面白かったのは、茸(くさびら 和泉流 大蔵流では菌(くさびら ))であった。

   さて、今回の狂言「禰宜山伏」は、シテ/山伏 善竹十郎、アド/禰宜 大藏吉次郎、アド/茶屋 善竹忠重、アド/大黒 善竹大二郎。
   伊勢の禰宜と羽黒山の山伏とが茶屋であう。
   山伏が威張って禰宜に肩箱を担がせようとするので、茶屋が仲裁に入り、茶屋所有の大黒天を互いに祈り比べして、影向した方の勝ちにし、その意向に従うことにしようと提案する。
   大黒は、禰宜の祝詞には快く従い、山伏のボロンボロには、ソッポを向いて、山伏が自分の方を向かせようとして袖を引くと槌を振り上げる。
   焦った山伏が、相祈りを強要して、再び競い合うのだが、結果は同じで、自分に靡かせようとするので、怒った大黒が、槌を振り上げて山伏を追い駆け、橋掛りに駆け込むので、禰宜と茶屋がその後を追う。
   
   至って単純な話だが、山伏が、最初から威張り散らして居丈高に登場して、禰宜や茶屋を人を人とも思わない振舞い振りで、茶屋がサーブした茶が熱いと言って散々文句を言い、言われもないのに、禰宜に肩箱を持てと強要するなど傍若無人で、茶屋の禰宜びいきは勿論、大黒天も、大人しい禰宜を贔屓するのは当然だと言う雰囲気を作り出してしまっているので、見ている方も、何時、山伏を遣り込めるのか、期待して見ている。

   このあたりの芝居と言うか芸だが、剛直で豪快な善竹十郎の弁慶は、出色で、それに、人の好さそうな好々爺の大藏吉次郎の禰宜が、柔のホンワカとした雰囲気を出して対応しており、その対照の妙が、面白い。
   茶屋の善竹忠重が、また、実直で優しい対応をして、硬軟リズムをつけて受答えしていており、朴訥な雰囲気の大黒の善竹大二郎の演技と相まって、上質な笑劇を見ているようで面白かった。

   今月は、間狂言「貝尽」を見過ごしたが、復曲狂言「茄子」と大蔵流狂言「成上り」を見ており、月末には、狂言の会があって、「鴈礫」「千鳥」「賽の目」を鑑賞することになっている。
   これまで、随分、狂言を楽しんで来たが、能のように、威儀を正して鑑賞しなければならない初歩の私にとっては、気楽に、ブッツケ本番で楽しめるのが有難い。
コメント
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