熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・能「西行桜」狂言「鳴子遣子」ほか

2018年04月26日 | 能・狂言
   今日の国立能楽度yの企画公演は、次の通り。
   《特集・西行 生誕900年記念》
解説  西澤 美仁(西行学会元代表)
仕舞  実方(さねかた)キリ  梅若 実 
狂言  鳴子遣子(なるこやるこ)  茂山 七五三(大蔵流)
能  西行桜(さいぎょうざくら)  梅若 万三郎(観世流)
 

   「西行桜」の舞台の京都西山の西行庵室は、今の花の寺勝持寺だと言われているようだが,西澤さんの話では、源氏物語では、西山は仁和寺のようだし、嵯峨野や嵐山など、定かではないようである。
   私自身、学生時代に京都の古社寺を歩き回ったので、殆どの桜の名所は知っているつもりだったが、この勝持寺だけは、阪急沿線の向日町あたりからのアクセスで、多少不便であったし、桜の季節にいかないとダメだと思って、とうとう、訪れる機会がなかった。
   いずれにしろ、京都西部には、いくらも立派な桜の名所はあるので、どこかを想定して、西行桜の舞台を想像すればよいのであろう。
   しかし、詞章では、山桜とあるので、その後生まれ出たソメイヨシノ主流の今の桜風景は、少し印象が違うのかも知れないとは思う。
   この山桜だが、以前千葉にいた時に、吉高の大山桜を撮影したので掲載するが、ソメイヨシノと違うのは、花と若葉が一緒に出ることだと言う。
   

   「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と歌って、正に、その時期に入寂した西行のことであるから、何処でも良い、桜の咲き誇る西行庵を舞台にして、世阿弥か禅竹かが、能を作り上げたのであろう。
   「山家集」にある「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける」を主題にして、桜の精が、自身で春宵を惜しむこの舞台のテーマは、「惜春」。

   私が興味を持ったのは、偉大な歌人としても崇められ尊敬されている筈の西行が、「桜を見物しようと、多くの人がやってくることだけは、惜しくも桜の罪である」と歌っているのを引いて、満開の桜を独り占めにして鑑賞しようと、下人に、他人を寄せ付けるなと指示する大人げない所業もそうだが、桜の精に、「憂き世と見るのも世間を離れた山と見るのも、ただその人の心次第であって、花には、人の世の憂き世は関係ないので、何の罪もない」と諭されると言う面白い設定である。
   さらりと詠めば、風雅な西行の歌にも聞こえるが、今の世を考えれば、如何にも、独りよがりの歌心で、そのあたりをついたのが面白い。
   この主張は、「本来無差別」と言う仏教思想だと言うのだが、非情の草木であっても花実の季節を忘れることはない、「草木国土悉皆成仏」だと突っぱねられているところなど、西行はカリカチュアもどきだと感じたのだが、能楽初歩だから、勝手なことを言えるのかも知れない。

   90分のパフォーマンスで、終幕は、シテは、春の夜のひとときを愛おしみつつ、長い太鼓入りの序ノ舞を舞い続けて、花陰から白んでくる春の曙の風情を惜しみながら夜明けとともに消えて行く。
   当時の夜桜は、月光に映えての微かな美しさであろう、京都の桜名所の桜を追想しながら、観ていた。
   
   梅若実の仕舞「実方」は、直面の精悍で毅然とした素晴らしい表情が感動的で、感激して観ていた。
   
   狂言「鳴子遣子」は、シテの茶屋を、あきらが休演で、七五三が代演。
   七五三は、能「西行桜」のアイの強力にも予定通り登場した。
   心なしか、いつも、狂言方のアイ狂言への全力投球の舞台に感激している。
   この狂言「鳴子遣子」は、鳴子か遣子かで言い争う二人(宗彦、童司)の判定人になった茶屋が、賄賂を貰いながら、賭禄の二人の小刀まで持ち去ると言う話。
   一寸アイロニーの利いた面白い話である。

   今月、国立能楽堂主催の能舞台は、これで4回目だが、萬斎の登場した狂言「武悪」が面白かった。
コメント
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