熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

吉例顔見世大歌舞伎・・・仁左衛門の「大星由良之助」

2009年11月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座夜の部は、五段目と六段目で、早野勘平を演じる菊五郎と、七段目と十一段目の大星由良之助を演じる仁左衛門と、全く、異質な舞台が連続で演じられるのだが、ある意味では、この落差が、仮名手本忠臣蔵の面白さでもあろうか。
   吉田玉男の「文楽藝話」を読んでいて気がついたのは、主役である大星由良之助が、この舞台で、本格的に主役として活躍するのは、七段目の「一力茶屋の場」であると言うことである。
   確かに、塩冶判官切腹の場から城明け渡しの場は、格好が良くてぐっと来るところだが、玉男の言を借りれば、忠義一徹で通せば良く、「山科閑居」以降も、素人目には、出番も少なく特に特別な演技を求められるようでもないような気がする。
   
   何故こんなことを書くかと言うと、玉男が、玉助の代理で、四段目と七段目の由良助を勤める機会があったのだが、一力茶屋場の由良助を2回も断って、通しで由良助の人形を遣ったのは、ずっと後になってからだったと言うのである。
   「私はまだ30になるやならずの時分で、さすがに茶屋場の由良助は荷が重く、四段目だけ受け持ち、七段目は老巧な紋太郎さんに引き受けていただきました。四段目には決まった型があるので、そこそこ遣いこなせるのですが、本心を隠して遊蕩に耽る七段目の由良助は、その雰囲気を出すのが難しい。ある程度の年功を重ねないと、どうしても出せない味と言うものかなあ、そんなものが必要だと思うのです。そんなわけで、辞退させていただいた。」と言うのである。

   人形浄瑠璃と、生身の役者が舞台に立って演じる歌舞伎とは、勿論違うので、一概には、言えないと思うが、私自身は、この茶屋場こそ、柔と剛の世界を綯交ぜにした大星由良之助像を最も鮮やかに活写した舞台だと思っている。
   酔いつぶれて本心を隠しながら細心の注意を払っていた筈だったのに、それも、正気に戻って読み始めた顔世御前の書状を、お軽(福助)に読まれてしまい、最大の失策を犯してしまった悔恨の思いと慙愧の念に傷ついた心中を如何に収めるか、この一事の表現でさえ役者にとっては至難の技であろう。
   口封じに、由良之助は、お軽を殺害するつもりだったと思う。もしそんなことをすれば、由良之助の、仇討ちの目算が完全に狂ってくるのだが、由良之助役者は、その苦悶を抱えてどうするのか、お軽とちゃらちゃらして身請け話まで約束するのだが、あまりにも落差の大きい心変わりが、動揺の激しさを示している。

   さて、私は、これまで、この段で観たのは、幸四郎、吉右衛門、それに、團十郎の大星で、東京ベースの達人たちの舞台であったが、今回は、仁左衛門の大星で、大分ニュアンスの違った芝居を観て非常に興味深かった。
   私には、どうしても、大星は、根っからの関西人であった筈だと言う意識が強いので、今回、随所に関西弁の訛りと言うかニュアンスの勝った仁左衛門の由良之助を観て、大分、人間大石内蔵助像に近づいたような気がした。
   大石には、剛直で一本気と言うか、関東武士のようなイメージではなく、近松門左衛門と一緒になって塩の専売権の確保と販路の開拓に奔走したり、上方の文化人と交わりながら芸の道を追い求めたり、とにかく、俗世間との接触も豊かで硬軟取り混ぜた文武両道の達人だった筈であり、大坂の商人的な要素を持った能吏家老であったようなイメージを持っている。
   主君の無念を晴らすために仇討ちの一事しか念頭に無く一切ぶれない、そんな関西人的な、計算しつくされた諦観に似た使命感が由良之助を突き動かしており、夢と現実が錯綜する、そんな大石像を、仁左衛門は、思い描いていたのではないかと思っている。

   大星の苦悶を、寺岡平右衛門(幸四郎)が察知して、自分の仇討への参画条件にお軽を殺害しようするのだが、この兄妹の諍いによって、総てを察した由良之助が、平右衛門の仇討ち加わりを許し、お軽に手助けして縁下の敵に寝返った元家老の九太夫(錦吾)を、夫勘平の手柄にすべく討たせる。

   どちらかと言えば、それまでは、酔っ払いを押し通して、時には、お軽とのちゃらちゃらでコミカルでさえあった柔らかだった由良之助の仁左衛門が、九太夫を、獅子身中の虫として激しく打ち据える激しさは、一気にテンションが爆発して、見事なまでの威厳と誇りを表出し、大石の大石たる面目躍如の舞台姿で、千両役者としての仁左衛門の雄姿は流石であった。

   本来、由良之助役者として押しも押されもせぬ名声を博している幸四郎が、足軽平右衛門を演じているのだが、やはり、相手役を熟知しているので、間合いや呼吸の合わせ方など、実に上手い。
   先般、自分が由良之助を演じていて、子息の染五郎がこの平右衛門を演じていたのだが、どんな気持ちであろうか。
   幸四郎は、喜怒哀楽の激しい非常にダイナミックな平右衛門であったような気がしているのだが、貫禄が勝ちすぎている分は、関東武者としての荒削りの無骨さの表現と考えれば良いのであろう。

   お軽は、五・六段目は、時蔵が演じていて、この茶屋場は、福助が演じている。
   幸四郎との呼吸も合っていて、どちらかと言えば現在的でモダンな雰囲気で、それなりに素晴らしいお軽なのだが、前に、玉三郎を観ているので、一寸、演技過剰と言うかはしゃぎ過ぎのような感じが気になった。
   平右衛門に、夫勘平の消息を聞きだす時の恥じらいの表情だが、玉三郎には、何とも言えない女らしさ、そこはかとした色気が滲み出していて、随所に、奥女中、遊女、夫や家族思いの優しい京女と言った女の魅力を感じたのだが、この方がお軽の実像に近いような気がする。
   

   
  
   
コメント
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