「ぐうたら ・フォト日記」

「ぐうたら」を生活信条とする、ぐうたらなフォト日記です。時々『写真の無い・フォト日記』にもなります。

新聞博物館で・・・

2010年06月12日 | フォト日記
今日は、日本大通の新聞博物館で朝鮮戦争従軍カメラマンの話を聞く会なのですが、思っていたのとはちょっと違った座談会でした。

3日に見た写真展示の中に、逃げ惑う民衆の写真や捕虜の写真がたくさん有ったので、そういう生々しい話を期待して居たのですが、実際は「従軍記者は佐官(少佐・中佐等の将校)待遇で、国連軍からあてがわれた宿舎には、世界各国の特派員がいて24時間サンドウィッチとコーヒーが用意されていた」と言う従軍カメラマンの実務的な話が主体でした。

戦場の報道システムとして、「電話も通信も整備され(通信兵が記事を打電したようです)前線と連絡を取り、許可を受ければジープに乗って取材に行く、何かあれば国連軍の広報から発表がある」と言った生活で地元の人との交流は殆ど無かったそうです。

そもそも開戦当初は日本人の取材は許可せれておらず、休戦の話が出はじめた昭和26年7月からの取材だったそうです。

と言う訳で僕としては、いささか期待外れだったのですが、「報道のシステムや官僚的支配のシステムは、今と殆ど変わらないんだ」と言うことを確認できたのは興味深い事でした。

観客は僕よりひと回り上くらいの人が多かったでしょうか、若い人は少なかったです。報道関係のOBの人でしょうか?

19日の映画会も申し込んだのですが、その日は四ツ谷の韓国文化院で日韓併合百年の映画会とシンポジウムに誘われて居るので、「どっちに行こうか?」、と言う気になって来ました。

ところで、その当時の報道カメラマンは、スピグラに4×5インチのフィルムと言う組み合わせでフィルムは未現像のまま、ジェット戦闘機で立川へ1日2回届けられ、田村町の米軍広報部で検閲
を受けた上で配信されたそうです。その当時、テレタイプ・伝送写真はすでにあり、ポラロイドも使っていたそうです。
僕はジェット戦闘機と言うのがひっかっかたのですが、F80Cと言う戦闘機が量産されていたのですね・・・、僕が生まれた年より前です。

コメント
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