11日からの三日間は扇橋小学校の三つの学年での授業を行った。そのうち、六年生の授業は、俳人の高橋博夫さんに中心になって進めていただたいた。
その中で、高橋さんが強調されたことの一つは、感動を大切にするということだ。
俳句も詩であり、詩を作る原動力は、心の動きだということである。
生活の中での、自然と触れあったときの感動を捉え、言葉にしていく,こうした心性を子どもたちが獲得していく。これが俳句の力だと思う。よく言われた言葉によれば、「体験の言語化」ともいうことができるだろう。
もう一つ強く感じたことは、俳句における「句会」の大切さということだ。授業を終えて、校長先生を交えて懇談した。その時に「茶道」と「俳句」の相似性について話が及んだ。
結論から言えば「一期一会」ということだ。二度とはあり得ない場を共有する喜びのようなものである。
俳句をなんのために作るのか。これについては、いろいろに考える人がいる。ある人は名句をものにし、名前を後世まで残したいという人もいるだろう。つまり、句作りそのものが目的であって、句会もそのための手段だという考え方だ。近代個人主義の考え方に基づけば、そう考えるのが普通であるとも言えよう。
そういう考え方の人からすると、子どもの俳句でも世間に通用する「名句」が生まれるかどうかが、一番の判断基準になる。もちろん、教室を超えて通用するすてきな句が生まれば、それにこした事はないし、別に矛盾する問題でもない。
しかし、学校俳句という場面を考えたとき、私は「場」というものつまり「句会」という場を豊かに共有することを第一に目指したい。
扇橋小学校の授業の中で次の句が出てきた。昨日の感動を俳句に詠むという種類の授業である。
梅雨の日にアスパラガスを買いました
散文調であるが、とても自然でよい句だと思った。句会では、この句に10票入った。はじめてするような子どもの句会では、この種日常の地味な場面の句に票が集中することはあまりない。
裏には,ドラマがあった。
今日、家庭科で調理実習があるのだそうだ。その調理実習の準備のために買い物に行った。そこで何を買おうか悩んだ末に買ったのがブロッコリーだったというわけだ。ブロッコリーを手にとって悩んでいる子どもの姿が目の前に立ち上ってくる。
大人の句会では、あまり自句自解をしない。提出された作品は既に作者の手を離れた文学作品だからだ。
しかし、学級の句会では、自句自解をさせた方がよいと思う。そのことによって、一層場を共有することができるからだ。(と同時に自由な解釈の意味を教えることが必要だが・・・)
心が繋がり共有することができる喜び。これが句会にある。それは、俳句の授業や国語教育を超えたところにあるような気がする。もちろん、句会は、俳句の質を高めたり、言葉を学ぶ絶好の機会なっていることは自明だが、句会は、そうした事を超えて、生活し、共に生きる喜びを共有するにもなっているのだ。句会は学校俳句の命ではないかと思う。