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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 743 マムシ

2022年06月08日 | 1977 年 



通称マムシこと柳田真宏選手の猛威が今、セ・リーグを席巻している。マムシに睨まれたカエルのように相手投手は怯え、潰えていく。巨人快進撃はこの堂々の五番打者の大活躍あってこそ。かくて5月MVP獲得、むべなるかな…である。

長嶋監督を狂喜させたマムシの効能
長嶋監督はこのところすこぶるご機嫌だそうである。貯金12で2位阪神を4.5ゲーム引き離し独走態勢だけに笑いも止まらないだろう。その長嶋監督が「柴田・高田・柳田の3人の働きが無かったら今のウチはもっと厳しい状態だっただろう」と貢献度が高いと言い、特に「中でも5月の柳田は攻守ともにナンバーワン」と手放しで褒め上げた。73打数34安打・打率.466・7本塁打と猛威を振るい月間MVPを受賞したことで明らか。1試合3安打以上の猛打賞が25試合中6試合もあった。まさにバットを振ればヒットになる感じだった。周囲は柳田のことを恐怖の仕掛人と呼んだが柳田の一振りで勝った試合を見てみよう。

5月21日の対広島戦、1対1で迎えた6回裏に高橋里投手から決勝本塁打。26日の対ヤクルト戦では先発・松岡投手の出鼻をくじく先制本塁打。27日の対阪神戦でも決勝本塁打。そして31日の対中日戦では5回裏に佐藤投手から同点本塁打など勝負どころで勝敗を左右する貴重な一発を放った。ところで当の柳田本人は5月の働きぶりについて「90点」と自己採点している。" 百点満点 " という答えを予想していたが「あまり欲張って点をつけてもね。でもプロ入り最高の年になりそうです」と表情を崩した。そして「自分としては5月に打ったどの一発よりも4月6日に打った満塁ホームランの印象が強いです」と話す。4月6日の対大洋戦の3回裏、2対2の同点の場面で飛び出した今季初本塁打だった。

二軍時代に首位打者になったことはあるが一軍で初めての表彰が5月の月間MVPだった。「月間MVPは1人ずつ貰ったとしても年間で7人だけ。その7人のうちに選ばれたのはこの上ない名誉だし喜ばしいことだと思います(柳田)」と喜びを表す一方で「でもこうして賞を頂けるのは試合に出場できるから。今のウチでは外野のポジション争いは熾烈で、よほど運が良くなければ試合に出られない。末さん(末次選手)が怪我をして空いたポジションに自分がいるのは複雑です」とシンミリと話す。打撃練習中に柳田が放った打球が末次の目を直撃して大怪我を負わせてしまった自分を責めているのだ。


マムシに魂入れた恩師・八浪氏のビンタ
柳田真宏・29歳。今でこそ華々しく脚光を浴びているがプロ入り11年目を数えるのだから、プロ野球の世界では遅咲きの部類に入ろう。小学生の頃から野球好きで中学(熊本市立白川中学校)に入ると1年生で四番を打ち、高校(九州学院)に進学後も1年生の新人戦の初戦で五番、2戦目が三番、3戦目には四番を打ち、高校を卒業するまで四番を任された。柳田の打棒は熊本県下では有名だった。残念ながら甲子園大会には出場できず中央球界では知られた存在ではなかったが、熊本出身で当時巨人軍の監督だった川上哲治氏が柳田を視察しにわざわざ熊本まで出向いたほどだ。

高校時代の柳田にとって忘れられない存在だったのが九州学院野球部監督の八浪知行氏(現熊本工業監督)だ。" ビンタの八浪 " で有名だが柳田もその洗礼を浴びた一人だ。高校の入学式前からクリーンアップを打たせただけに柳田に対する教えは想像を絶するものがあったという。「八浪さんから常々言われたことはプロ野球の世界に入るのはそう難しいものではない。だが成功するのは難しい。『だから一生懸命にやれ!』だった。お前はプロでも中軸を打てる力はあるとも言われました。自分自身も将来はプロでやりたいと思っていましたが、八浪さんの言葉はピンと来ませんでした(柳田)」と。その言葉の意味が分かったのは高校2年生の時だった。

昭和39年6月4日に父親・善次郎を亡くした柳田は練習にも身が入らず落ち込んでいた。「クヨクヨしても仕方ないので練習に参加したけど投げやりな態度でした。練習後に監督に呼ばれて部室に入ったら、いきなり平手が飛んできた。何発殴られたのか自分では分からなかったが、同級生によると30発くらいだったそうです。監督が泣きながら殴っていたのは憶えています」と柳田は懐古する。八浪氏とすればこのままでは柳田はダメになると考え、心を鬼にしての愛のムチだったのではないか。その日から柳田の野球に対する取り組み方は変わったという。「何が何でもプロに入って成功するんだという気持ちが強くなった。今あるのは八浪さんのお蔭です(柳田)」

昭和42年に西鉄入り。プロ9打席目の東映戦で現在は巨人で同僚の高橋良昌投手から初安打が本塁打の快挙。だがプロ2年目のオフに若生忠男投手と共に巨人へトレード移籍。希望を胸に上京するが当時の巨人は長嶋、王をはじめ森、国松、柴田、土井など競争相手がひしめき、レギュラーポジション獲得は至難の業だった。しかし柳田は「巨人の本当のレギュラーは長嶋さん王さんの2人だけ。あとのポジションは努力次第で何とかなるのでは」と自分に言い聞かせた。だが現実はそう甘くはなかった。移籍2年目のキャンプで椎間板ヘルニアを発症し5ヶ月間の療養を余儀なくされた。しかしこんな時こそマムシ魂に火がついた。


五番の重みを監督の恩情で跳ね返して
開幕前に五番候補の末次が怪我に倒れ、代わりに入った柳田は開幕直後こそ好調だったが徐々に重責に圧し潰された。巷間よく言われる " 五番打者の重み " 。以前はONの後ろ、今はOHの後ろを打つ五番打者の重圧は計り知れない。4割近くあった打率が2割3分台にまで急降下した。心身ともに打ちひしがれていた時に手を差し伸べてくれたのが長嶋監督だった。5月6日に多摩川グラウンドに呼ばれ「ヤナ、俺が打撃投手をやるから打ってみろ。スピードはないけどコントロールは良いぞ(笑)」と長嶋監督は投げ始めた。時間にして1時間半、「30分もすると打つのが辛くなって後は無心で打ち続けてフラフラになった(柳田)」

翌日の試合はスタメンから外された。「あぁ俺もここまでか…と思ったんですけど、外されたのは1試合だけでまた五番に復帰できた。嬉しかったですね(柳田)」と。あとはガムシャラだった。今まで脇役だった男がようやく主役の座を掴みかけた。かくてマムシの執念みたいなものが5月の月間MVP獲得に結びついたと言えよう。言い忘れたが「マムシ」のニックネームは熱狂的な巨人ファンの毒蝮三太夫に柳田が似ているという理由で付けられたのだが、鋭い眼光で相手を睨み必殺の一撃を相手に叩きつける様は今となっては他人から借りたニックネームとは思えないほど柳田にピッタリだ。まだまだこれからも恐怖の五番打者・マムシの大暴れは続きそうだ。
コメント
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