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#326 十大秘話 ④ 投手分業制

2014年06月11日 | 1983 年 
現在の江夏(日ハム)や斎藤明(横浜大洋)に代表されるストッパー役の先駆者が「8時半の男」こと宮田征典(巨人)だ・・・「また宮田か、一体どうなってんだ?」「今日で5連投だぞ。川上監督は気でもふれたのか?」 まだリリーフ投手の概念が確立されていなかった時代だけにネット裏はザワついた。

昭和40年6月2日、巨人対阪神9回戦の8回表二死二塁の場面で金田投手が左ヒジを抑えて顔をしかめた。藤田投手コーチが慌ててマウンドに駆け寄るが続投は無理と判断すると川上監督は迷う事なくブルペンを指差した。宮田投手がゆっくりと登場した。5月27日のサンケイ戦、5月29,31日の中日戦、6月1日の阪神戦に続いて5試合連続の登板となったが宮田は涼しい顔で阪神の追撃を絶ち金田に白星をプレゼント。この7連戦中、宮田が登板しなかったのは5月25日のサンケイ戦のみ。6月4日現在、宮田の勝ち星は「5」だがチームの23勝中、16勝に貢献。巨人にとって今や欠かせない戦力になっている。 【 昭和40年6月21日号 「価値ある男・宮田征典」 より 】


巨人が僅差でリードして終盤にピンチを迎えると能面のように表情を変えず鮮やかにピンチを脱する宮田は「8時半の男」と呼ばれた。宮田が登場するのがスコアボードの時計の針が8時半を指す頃だったからだ。宮田の投球スタイルの特徴は間合いが長かった事だ。打者は宮田の間合いにイライラして術中に嵌り凡打を繰り返した。周りはそれを「じらし投法」と呼んだが実は持病の心臓病を抑える為の苦心の投法だったが、それが世間に知られるようになるのは数年後。そうして投げ続けて10月15日の大洋戦で「44回交代完了」の日本新記録を達成、リリーフだけで17勝というのもセ・リーグ記録となった。

この宮田の活躍が後の九連覇という偉業のスタートとなる昭和40年の優勝の原動力となった。MVPは打点と本塁打の二冠に輝いた王に譲ったが川上監督が「私にMVPを選ばせてもらえるのなら宮田にあげたい」と語ったのはよく知られた話だ。巨人が九連覇街道をひた走る初年度に球史初の「火消し専門投手」の登場によって優勝を遂げた事は近代野球の幕開けの象徴と言える。これ以降、各チームは宮田的投手の発掘・育成に力を注ぎ現在のストッパー全盛の時代へと行き着く。江夏や角、牛島らに代表される絶対的ストッパーの存在が優勝を左右する決め手となっている。

セ・リーグを制した巨人と日本一を争った南海は監督人事で揺れた。日本シリーズで敗れた鶴岡監督が辞表を出すとすんなり受理され、後任に蔭山監督就任が発表され監督人事問題は一件落着した筈だった。一方、監督を辞した鶴岡だったが名将は引く手あまたで東京オリオンズとサンケイスワローズによる獲得合戦が繰り広げられ、自ら上京して両球団と同時交渉して就任先を決める事となった。しかし出発当日早朝に蔭山監督が急死してしまった。鶴岡は上京を取りやめ蔭山の葬儀に出席した。そして葬儀に来ていた野村や広瀬ら主力選手の復帰要請を受けて南海の監督に戻った。多くの関係者によると鶴岡はオリオンズの監督就任に乗り気だったそうで、蔭山の死が無ければその後のパ・リーグ勢力図は変わっていたかもしれない。


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