「今までは自己満足で投げていた。思いっきり投げて三振を取る、それがたまらなく嬉しかった」・・・昨年は右太腿の肉離れと右足親指付け根の痛みで大事な終盤に戦線離脱し、プレーオフはベンチ入りさえ出来ず9勝9敗に終わった。「投手なら誰でも変わらなければならない時が来る」 当時は聞き流していた4年前の鈴木啓示(近鉄)の言葉が心に沁みた。「いかに速い球を投げるか」ではなく「いかに速い球に見せるか」かが今年の村田のテーマだった。キャンプからオープン戦を経て村田が辿り着いた答えが開幕戦での投球にあった。6年連続の開幕投手、過去5年の開幕戦の初球は渾身のストレートだった。その村田が選択した今年の初球はシンカー・・過去の自分との決別だった。
◆自己満足…投手であるならば三振で打ち取る妙味を感じない者はいないはずだ。「去年までは新聞を見ても防御率と三振奪取欄ばかり気にしていた。勝ち星より三振数、いかに速い球を投げるかの方が自分には大事だった」それは自己満足だと諭された。そんなに速い球が投げたければ一日中ブルペンでスピードガンと競争してろと言われて目が覚めた。
◆16奪三振…昭和54年春、日生球場の近鉄戦で足立(現阪急コーチ)が持つ日本記録「17」にあと一歩の16個まで迫った。「最初から最後の1個までどんな三振だったか今でも全て鮮明に憶えている。逆に言えば三振を獲り損ねた場面も憶えている。つまり記録を破れなかった事がそれだけ悔しかったって事だよ」
◆曲がり角…「スピードの衰えを自覚した時の兆治は見るに忍びないほど落ち込んでいたが速球投手なら誰もが通る道。速球派から技巧派へ、これが平坦な道じゃない。鈴木(近鉄)でさえ3年近くかかったとアドバイスした(ロッテ・若生投手コーチ)」
◆甲子園…進学先は創立3年目の福山電波高。家の近くに尾道商があったが、電波高の校長が「ウチの野球部は絶対に甲子園に行く」との宣言につられて入学。2年生と3年生の時は優勝候補と言われながらも、甲子園出場は叶わなかった。
◆先輩…1学年上に浅野啓司(巨人)がいた。浅野が3年生の時に県予選準優勝してドラフト9位でヤクルト入りした。「浅野さんは1年目に8勝してね、あの時初めてプロを意識したんだ。俺もプロに行けるかもって」
◆オリオンズ入団…当時の評価は球は滅法速いが制球難。家族は大学進学、本人は社会人入りを考えていたが連日12球団のスカウトがやって来て話をするうちにプロ入りに気持ちが傾く。「親があんまり大学、大学とウルサク言うもんで『俺はプロへ行く』と、反抗したい年頃だったしね。でもプロなら広島カープ一本槍で他は考えてなかった・・ドラフトだから仕方なかったけど東京は頭になかった」
◆マサカリ投法…ヒップ投法とも言われるダイナミックな投球フォームは入団4年目くらいから。「プロ入りした頃から球は速いと言われていたけどフォームがバラバラで制球難だった。速い球を投げるには腕を強く振らなければと思っていたけど、腕に力を入れると下半身がついて来ない。先ずは下半身強化だと考えて行き着いたフォームがあの投げ方」
◆フォークボール…「フォークを投げたいと思ったのは村山さんのファンだったから。真っ直ぐしかなかったからマスターしようと必死だったけど投げ方すら分からなかったから全然ダメでね、ブルペンで俺が投げていたフォークを見たコーチに『あんな球じゃ試合では使えないからやめておけ』と言われていたけど試しに投げてみた。案の定ポカスカと打たれたけど『あれはカーブです』と言って誤魔化した。実際にカーブと大して変わらなかったね」
◆消える魔球…オープン戦で対戦した新人・原(巨人)が「村田さんの球スゴイんです。途中で消えちゃいました」と発言。これに対し「悪い気はしない。次までには必ず打てるように努力してぶつかって来るはず。でも感心したね、あれだけ騒がれてプロに入って来ても謙虚さがある。だからこっちも色々と教えてやろうという気になる。大きく育って欲しいね」
◆家族…妻・長男・長女の4人家族。取材中に小学校1年生の長男が西武ライオンズの帽子を被って遊びから帰って来た。「ロッテ? うん、好きだよ。でもロッテの試合を見たのは1回だけ、パパが投げてた試合。パパが毎日試合に出ないからつまらない。なんでバッターじゃないの?」 にはパパも苦笑い。
◆パ・リーグ…「優勝した時だけチヤホヤされて1年たつと忘れ去られる、これがパ・リーグでプレーする選手の辛いところ。控え選手でも周りに盛り上げてもらえる環境にある球団にいる選手には分からない苦悩がある。近年は西武人気もありパ・リーグに注目が集まりつつある。これを一時的なものにしないようリーグ全体で頑張りたい」
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