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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 637 監督の座

2020年05月27日 | 1976 年 



もやもやしていたヤクルトの監督問題は、どうやら2年間は広岡体制で臨むことが本決まりになって一件落着のようである。しかし " ポスト広岡 " には実力者・武上コーチが控えており、フロントの意思も完全には統一されていない事から気の早い人は早くも来年のストーブリーグの目玉商品になりそうと気を回しているのだが、一体ヤクルトには何があるのか。

V1の " 切り札 " 広岡への評価
11月26日付のスポーツ紙には " 広岡監督2年契約 " の見出しが躍った。しかし遡ること半年前、荒川前監督が休養した時は確か佐藤球団社長は「広岡ヘッドコーチには監督として来年から向こう3年、指揮を執ってもらいたい」と明言していた筈。年数が減っただけではない。全日程が終了しても監督就任がなかなか発表されなかった。報知新聞が『未だに未契約、おかしな広岡の周辺』、日刊スポーツが『契約は1年?3年?』と報じたり、系列紙のサンスポに至っては『更迭の可能性も』と衝撃的な見出しも。シーズン終了と同時に正式発表しておけば混乱を避けられた筈だがフロント陣の先延ばしの方針が混乱に拍車をかけた。

なぜ発表を先延ばしにしたのか?そこには「武上コーチの存在がクローズアップされる(ヤクルト担当記者)」というのだ。武上コーチは現役時代から将来の監督と目されていた。片や広岡監督は佐藤球団社長から優勝への最後の切り札とチームを託されていて当分は広岡体制が続くと誰もが思っていたが、情勢は少なからず変化していた。当初は佐藤社長の思惑通り広岡ヘッドコーチを監督代行へ、その後正式に監督就任。そして留任という流れがいつの間にか監督更迭というムードへ変わっていった。その辺の事情を「佐藤社長がノンビリ構えている間に武上派の役員が動いた形跡がある」とフロント関係者は証言する。

そのフロント関係者によると広岡監督の評価は球団内でも分かれているという。
 ❶ 性格はだいぶ柔らかくなったが、まだ馴染めない選手もいる
 ❷ 会田投手を開花させたが井原投手と西井投手を潰した
 ❸ 内野手育成は広岡監督の担当だが期待していた渡辺進選手は伸び悩んでいる
これら3つの理由と5位に終わった結果を受けて広岡監督の手腕に疑問を持つフロント陣も少なくないという。

寝首を掻かれた恰好の佐藤社長だが、例えて言うなら任期満了で国会を解散した三木首相は総選挙後も引き続き政権を担当する気だったが、自民党内の反対勢力である福田派・大平派が虎視眈々と権力奪取を画策している政治の世界と似た構図である。リーグの会合に出席した際に鈴木セ・リーグ会長に「一体ヤクルトはどうなっているんだ?」と問われた松園オーナーは「広岡でいきます。ただし3年、5年とか長期の契約はしません。監督も選手同様に1年・1年が勝負ですから」と答えたと伝えられている。これが事実ならば松園オーナーの頭の中には既に " 武上監督 " が浮かんでいるのかもしれない。

チームの生え抜きで現役時代からファイターとして知られ、歯に衣着せぬ物言いで武上コーチの言動はクールな広岡監督とは全く別の存在感がある。しかも万年Bクラスのチームには得てして外様監督には選手の心理や行動を把握しきれないものが潜んでいる。そんなチームを一つに纏めるには生え抜きが適任であるという考えをフロント陣が持っていたとしても不思議ではない。三顧の礼を尽くして自分を迎えてくれた佐藤社長から具体的な契約年数を告げられないままでは広岡監督の気持ちもスッキリとしなかったであろう。


森バッテリーコーチ招聘のジレンマ
「頼んだぞ、と言った社長が何時までたっても契約年数の話をしない。スタッフも決まらずトレードも進まないときては広岡さんもイライラしていたんじゃないかな。契約は1年で充分だ、1年経ってまた再契約した方がよっぽどスッキリすると広岡さんも開き直ったと聞きましたよ」と某紙の担当記者は言う。広岡監督としては契約年数よりもコーチングスタッフ、特に森バッテリーコーチの処遇の方が重要であると考えていた。佐藤社長が11月22日に森氏と会い入団を要請したが森氏は返事を留保した。「森氏は現場に戻る意思はあるがヤクルトの現状を不安視しているのでは」と担当記者は推測する。

広岡監督が仮に短期政権だと、至上命令の優勝を逃した場合のスケープゴートにされてしまう可能性が有る。森氏も敢えて火中の栗を拾って自らの野球人生に汚点を残したくはないだろう。広岡監督も球団も森氏をバッテリーコーチとして迎えたい。森氏もその気があるのに快諾できない。監督の契約年数問題が人事にも影響を与えている。こうした情勢下で11月25日に広岡監督と松園オーナーとの会談が行われた。「私としては1年で勝負したいです(広岡)」「気持ちは分かるが2年以上はやって欲しい(松園)」と当初は意見の隔たりがあったが最終的に両者は歩み寄り結局、2年契約で決着した。

ただしこれでスッキリ解決した訳ではなかった。この会談の場に佐藤社長は同席していなかった。同席どころか東京を留守にしていたのだ。「広岡君の契約に関しては選手の契約更改が終わる12月上旬以降に本人と話し合う予定だ。契約年数もその時に決めたい」と言明していた佐藤社長が不在のまま松園オーナーとの直接会談で決めたのだから話は少々ややこしくなる。あえて " ややこしい " と表現したのは「広岡君となら3年と言わず5年契約を結んでもいいくらいだ」と話していた佐藤社長の算段と乖離が生じたからだ。どちらかというと子飼いの武上コーチを可愛がっている松園オーナーと敢えて直接交渉をした広岡監督のフロントに対する苛立ちは想像に難くない。

今季コーチになったばかりの武上コーチが来季から監督に就任するのは時期尚早なのは松園オーナーも分かっている。分かっているが5年も待てない。そこで間をとって2年に落ち着いた、それが恐らく実情だろう。「広岡擁立派は佐藤社長と徳永球団代表。反広岡派は相馬専務ら複数のフロント幹部(担当記者)」と対立しているそうで、それは松園オーナーも先刻承知である。ヤクルト本社の役員も「チームが強くならないのは現場とフロントがしっくりいっていないから」と。そういえば荒川前監督時代、コーチングスタッフの編成でフロント内の意思統一が出来ず紛糾し松園オーナーに一喝されたが、相変わらず解消されていない。


納会には出席しなかったオーナー
もうひとつ気になるのは後援会々長でもあるヤクルト本社の山下専務が最近めっきり表舞台から姿を消している事だ。二軍が使用する練習場は武山球場だが10年も間借り状態が続いていた。それを解消して埼玉・戸田市に新たな練習場を作り上げたのが山下専務だ。しかし当初の山下専務の構想では練習場の近くに合宿所を併設する計画だったが資金不足で着替えとシャワー設備のみの簡易なクラブハウス建設に後退してしまった。そのせいなのかは不明だが山下専務はそれ以降は球団への情熱が冷めてしまったようである。「この不景気では野球どころではないのもあるが、球団内のゴタゴタに山下専務も嫌気が差しているのでは?」と本社の別の役員は言う。

勝てない、人事の決定は遅い。トレードなどの補強もままならないでは全ての声が批判がましくなるのも致し方ない。「スタッフも今のまま。トレードも諦めて現有戦力を鍛え直して勝負するしかないですね」といささか自棄になる広岡監督の心中は察するに余りある。11月17日、銀座の東急ホテルで行われた納会に松園オーナーの姿はなかった。過去に松園オーナーはどんなに多忙で予定があっても、僅かな時間を割いて顔を出したり中座する事はあっても納会を欠席する事はなかった。ところが今年は選手やフロント陣に向けたメッセージという前代未聞の痛烈無比な手段に打って出た。

「マスコミの皆さんも今年はヤクルトが優勝するのではないかと宣伝してくれた。私自身も戦力からいってその気になっていた。しかしシーズンを終えてみるとどうだ。昨年の最下位だった巨人が優勝し我がヤクルトは想像だにしなかった5位ではないか。これはフロントから監督、選手に至るまで何かが欠けていたと判断するより仕方ない…(以下略)」進行役が代読したメッセージは松園オーナーの怒りであり失望であった。後日、松園オーナーは「納会に出なくて正解だった。良い薬になったろう」と苦笑していた。財界人同士の集まりで優勝できない事を冷やかされて悔しい思いをしてきただけに今年の不甲斐なさには腹わたが煮えくりかえる思いだったに違いない。

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