Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#228 ザ・プロ野球選手 ①

2012年07月25日 | 1981 年 


子供の頃にプロ野球選手と言われ思い浮かべたのは、いかつくてオッサン臭を撒き散らしながらプレーするベテラン選手で派手さは無くても仕事は出来る「ザ・プロ野球選手」達でした。


加藤英司【松下電器 → 阪急:通算 2028試合 2025安打 374本塁打 打率.297】
プロ入り13年目の33歳。この男に対するイメージは「ダーティ」だ。一匹狼、暴れん坊、反逆者・・。が、加藤はそんな声にも平然としている。「妙に穿った目で見る人がいるけど俺の生き方を理解してくれている人もいる。八方美人的な付き合い方は俺には無理だ」昭和53年の暮れ、当時の上田監督との衝突もそうだった。ヤクルトとの日本シリーズに敗れた夜に上田監督は宿泊先の水道橋のグリーンホテルで、報道陣に対して「新聞の締め切り時間も過ぎたから…俺は今年で辞める」と監督辞任を表明した。敗れた事以上に大杉の本塁打に対する抗議で日本シリーズというプロ野球界最大のイベントに泥を塗ってしまった責任を取るというものだった。

その場にホロ酔いの加藤が戻ってきた。加藤を見た上田は「おいヒデ、お前は情けないゾ。負けて悔しくないのか、阪神から田淵とのトレード話が来てる。シャッキリせんと本当に出されるゾ」と諌めた。これに血の気が多い加藤がキレた。「そんな話は辞めていくアンタには関係ないだろう、黙っていてくれ!」と言うなりイスを蹴り上げた。加藤としては「監督が辞めると聞いてそりゃショックだったよ。だけど責任のある立場の人が公の場で口にした事を選手が説得しても無駄だろ。興奮した事は反省しているが、俺は監督を引き止めんよ」と加藤なりに考慮したのだそうだ。その上田監督が3年ぶりに今季から復帰。今の加藤は選手会長&主砲としてチーム再建に乗り出した監督を支える立場の選手になっている。「俺が一番驚いたのはヒデの成長や。嘘をつけない性格は今も昔も変わらないが、久しぶりに話してみて凄く大人になっていた。ヒデには何も言わんでも大丈夫や、プロ中のプロになっとったわ」と上田監督も加藤に対して全幅の信頼を置いている。

人は加藤を天才と呼ぶ。確かに腰を開きバランスを崩されても球をバットの芯で捉える技術は天才の域にある。昨年までの通算打率.314 は若松、張本に注ぐ3位。ONや打撃の神様・川上哲治よりも上なのだ。「捕手というものは2ストライクと追い込んだ後にどんな球で討ち取るかを考えて逆算して投球を組み立ててリードをする。ところが加藤は追い込まれてヒット狙いに切り替えるとボール気味の球でも芯を外さない。彼の場合は早打ちして大振りしてくれた方が討ち取りやすい。本当に厄介な打者」 とインサイドワークに定評があった野村克也も脱帽する選手なのだ。しかし、加藤自身は「天才」と呼ばれるのを嫌っている。「バッティングとは何か。今は勿論、引退しても分からないだろうね。こんな難しいスポーツはない。いつも恐怖心を持ちながら打席に立っているんだ」と心情を吐露する。





水谷実雄【宮崎商業 → 広島東洋:通算 1729試合 1522安打 244本塁打 打率.285】
7月14日の阪神11回戦、腰痛の為に欠場したライトルに代わって四番に座り、敗戦目前の9回裏二死の場面で工藤から引き分けに持ち込む14号本塁打を放ち重責を全うした。昭和54年5月26日以来となる最下位に落ちるなど、2年連続日本一の栄光を手にしたチームとは思えないほどに低迷している今季。水谷もチーム同様に開幕当初は成績も低迷していたが夏場を迎えて徐々に上昇してきた。8月4日現在、打率.343 で藤田(阪神)・篠塚(巨人)に次ぐ3位。水谷には3年前に若松(ヤクルト)と熾烈な首位打者争い繰り広げタイトルを手中にした経験がある。「タイトルは狙って取れるもんじゃない。欲を出せば必ず崩れますから」と語る。

3年前の首位打者である割りに印象が薄いのは前を打つ山本浩のまばゆさと昭和54・55年と2年連続日本一への貢献度が低かったせいかもしれない。その2年間の打率は.260 .270 と振るわなかった。「結果に一喜一憂して、打てば慢心し打てなければ焦る。1年を通して平常心で野球をやる事の大切さを学んだよ」と振り返る。2年連続不振でも連続日本一のお蔭で年俸(推定2千万円)は下がらずに済んだ。「成績が悪かったのに給料を下げなかった球団に恩返ししなくちゃね」と今年は捲土重来を誓う。3年前の首位打者のタイトル以外とは縁が無く月間MVPすら受賞した事がない。「結果よりも過程を大切にしている。万全の状態で打席に立てるようにする事が重要なんだ。五体満足で野球が出来る今は幸せ」と語るには理由がある。

宮崎商の投手として甲子園のマウンドを踏み広島東洋カープへの入団が決まった頃、突然の慢性腎臓炎で入院。医師からは「野球のような激しいスポーツを今後も出来る保証は無い」と宣告された。当然キャンプ期間中は病院のベッドの上で過ごした。家族や学校関係者らの周囲からは契約金を返して野球を諦めるよう説得されたが本人は頑として首を縦に振らなかった。奇跡的に病状は回復したものの今度は投手失格の烙印を押され野手転向を余儀なくされた。代打で実績を残してようやく入団5年目には外野の一角を手にしてベストナインにも選ばれたのも束の間、外人選手導入が本格化し再び代打に戻ってしまった。

「ミズタニを使う用意はない」と宣言したのは球団初の外人監督・ルーツだった。「悔しかったね。実力では絶対に負けてないと思っていたけど、外人を連れて来ると無条件で先発で使うからね」苦しかった日々は酒に逃げた事もあった。「家に帰って女房に話したところで分かってもらえる筈もないから黙ってジッと我慢の毎日。酒に頼るしかなかった・・いくら飲んでも気持ちは吹っ切れない。そこでブッ倒れるまでバットを振った。それでようやく落ち着いたんだ。野球選手は体を動かしてナンボだからね、毎日試合に出られる今が凄く幸せなんだ」 つい最近まで食事療法を強いられていた男に二度目のタイトル獲得のチャンスが訪れている。






コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« #227 練習生の成功例 | トップ | #229 ザ・プロ野球選手 ② »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2017-05-14 17:58:11
その翌年に二人は交換でトレードされるんですが、こんな特集があったんですねえ。
返信する

コメントを投稿

1981 年 」カテゴリの最新記事