面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

うんざり。

2011年09月12日 | ニュースから
鉢呂氏「放射能つけちゃうぞ」 「死のまち」発言は陳謝(朝日新聞) - goo ニュース


あっという間に辞めてしまった鉢呂大臣。
このテの大臣辞職騒動に辟易しているのは自分だけではないはず。

鉢呂氏の発言については、その言葉遣いはいかがなものかとは思う。
大臣としての“覚悟”の弱さを感じるところではあるが、一方で今までの大臣連中には無い早さで現地に飛んだことを評価してもいいのではないか?
「死の街」という表現は確かにボキャ貧(死語?)感は否めないものの、しかし人っ子一人いないあの風景は、「死の街」そのものではないだろうか。
この一語をもって大問題視する姿勢の方こそ、「木を見て森を見ず」そのものであると同時に、その昔、世の中を糾弾の嵐で席巻した「言葉狩り」が先鋭化してきた現われのように思えて危険な香りがしてならない。
「死の街」を見て「死の街だ」と指摘した人間は糾弾され、「死の街」を作り出した連中は何ら責任を問われることなく表に出てくることが無いように感じるのは、単なる思い過ごしだろうか?
大スポンサー様に対する最大限の配慮をいとわないマスコミ各社と、莫大な利権の麻薬にマヒしてしまっている官僚・政治家による言論統制の影がチラついているように思うのは気のせいだろうか?
その先棒を担ぐかのような昨今の“大マスコミ”は、もはやジャーナリズムの機能を停止させていて、クソの役にも立たなくなっているのではないだろうか。
彼らの活動に「社会的使命」を背負っているように見えない。

インターネットによって膨大な量の情報が瞬時に飛び交うようになった世の中は、自由度が増しているようでいて、その実個人の自由度を著しく制限している。
民主的で自由な世の中は、ひとりひとりの「高い脳内成熟度」によって支えられるものだと考えるが、インターネットによる情報流通のスピードの速さに、それを使う人間の脳の成熟が追いつけていない。
「ネチケット」という言葉も思想も、“過去の遺物”としてしまってはいけない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿