面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「そうかもしれない」

2006年11月24日 | 映画
作家・高山治(桂春団治)と、その妻ヨシ子(雪村いづみ)。
大人気作家ではないが、まあ食べていくには不自由の無い平穏な暮らしを、夫婦二人きりで50年歩んできた。
ヨシ子の姉の子、甥っ子の武(阿藤快)がたまに顔を出しては、世間話をしていく。
ある日のこと。
散歩の途中にヨシ子が、買い物の品物を店に忘れてきたという。
急いで高山は店に向かうが、二人の顔を知る店員によると、今日はヨシ子は来ていないとのことだった。
その後、少しずつ言動がおかしくなっていくヨシ子。
とうとう日常生活でも目が離せなくなってきたが、同時に治も口の中に感じていた痛みが増してきて…

アルツハイマー型痴呆症が進んでいくヨシ子。
50年間、仕事にかまけてヨシ子をないがしろにしてきたかもしれないという思いから、過去を償うかのように、献身的に介護する治。
映画初主演となる春団治師の、素朴で軽妙な演技が、この映画に流れる重いテーマをさらりと受け流し、本作をいたずらに暗いものにしない原動力となっている。
しかし、その一方で随所に見せる切ない表情には、ヨシ子に対する深い愛情が刻み込まれていて、涙腺を刺激されずにはいられない。

このヨシ子に対する深い愛情表現の演技は、春団治師の十八番の一つである「高尾」を彷彿とさせる。
死んだ女房をこの世に呼び戻す方法を教わり、さっそく夜中に試そうとする喜六。
女房が出てきたときのことを想像しながら嬉々としている場面の心理描写が、本作の演技にも活かされたのではないだろうか。

ついに失禁してしまって悲しむヨシ子。
優しくなだめながら世話をする治に対してヨシ子が言う。
「どんなご縁で、あなたにこんなことを…」
人生を共にするための「縁」があって結ばれるのが夫婦。
時には相手を腹立たしく思ったり、イライラさせられることもあるが、それでもやっぱり相手のことを全て受け入れられるというのが、「縁」というものが持つ力なのかもしれない。

癌治療のため入院している治の病室へ、特別養護老人ホームに入所しているヨシ子が、ケアワーカーの志田(烏丸せつこ)に連れられてやって来る。
嬉しくも切ない思いでヨシ子の手を握る治。
「ご主人ですよ」
とヨシ子に声をかける志田。
治のこともよくわからないほど痴呆が進んだヨシ子が、霞がかかった頭の中の記憶をたどるようにして言う。
「そうかもしれない…」

ヨシ子が帰っていった後、ひとり病室のベッドで呆然と夕日に照らされる治の姿が切な過ぎる。
そんな状態の妻だからこそ、より愛しい思いで胸がいっぱいになる。
しかし、その愛しいという思いは、もう伝わらない…。
自分と妻との間にある「絆」が“赤い糸”として手にとれるものなら、力いっぱい引き寄せて、ずっと寄り添って生きてゆきたい。。

アカン、アカン!
もう涙腺のフタが閉まらなくなって、涙が止まらない。
観客もみんな同じなのか、劇場のそこかしこから、鼻をすする音が聞こえてくる。

「半落ち」もそうだが、自分には全然関係無いくせに、物語において「妻が痴呆になる」というシチュエーションには、からっきし弱い。
なので、本作の予告を観る度にウルウルしていたし、今回も上映開始前に手元にハンカチを用意していた。
ところが、春団治師のセリフまわしが、標準語なのにがっかり…。
これが春団治師の演技を妙にぎこちなくしてしまい、思いのほか感情移入ができなかった。
東京に長らく住んでいる大阪人、という設定か?とも思ったりしたが、春団治師のセリフは全て関西弁とする演出であったなら、師の演技はのびやかとなり、更に映画に深みが増したに違いない。
しかし、完全な関西弁のセリフだったなら、涙を流しすぎて脱水症状になっていたかもしれないので、これでよかったのかも?

そうかもしれない
2005年/日本  監督:保坂延彦
出演:雪村いづみ、桂春團冶、阿藤快、下條アトム、夏木陽介、烏丸せつこ


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