青山潤三の世界・あや子版

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なぜか中国Ⅴ

2018-03-20 15:26:04 | 「現代ビジネス」オリジナル記事

怒っちゃダメ!それが中国のカルチャーなのだから諦めなさい、、、凄い説得力です

2月8日記述 3月20 日付け「現代ビジネス」掲載記事 の元記事




紅包(撮影:Monica Lee)

前回は、春節つづきを書こうと思っていたのですが、四川省東部のチベット民族居住権で不審な山火事が相次ぎ、ちょっと寄り道して、それに関連する記事を紹介しました。 

もっとも、筆者は本来、その四川省や雲南省の山岳地帯を中心に、野生生物(主に昆虫と植物)の撮影や調査を行っているのですが、冬の間は極寒の世界、それで、比較的暖かい華南(広州や深圳など)やタイやベトナムに移動して(あるいは日本に帰国して)過ごしているわけです。

春節初日、アシスタントのMからメールがきました。春節の記事を今日アップしたよ、と伝えたら、一応喜んではくれたのですが、ちょっとがっかりした様子も。というのは、春節期間の村の様子を一生懸命撮影して、僕の記事に混ぜて使ってもらいたい、と考えていたようなのです(ちなみに前回の「先祖供養」の写真はMが実家で撮影したもの、前々回の新幹線の写真はMのご主人の撮影です)。

ということで今回はMが取材・撮影した地方の春節を紹介しながら進めて行きます。以下はMが送ってきた記事(カッコ内は筆者注)。中国の田舎の正月風景です。日本と似ている?それともかなり違う?

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春節は中国の最大のイベントです。新婚の女性は、赤ちゃんを伴って両親のもとに帰ります。
農村では、みんな半月~ひと月前から春節の準備します。まず、村中を奇麗に掃除します。そして、手作りのお菓子を用意します。
大晦日は、朝と昼の食事は簡単に済ませ、日中に部屋のドアの周りの「春朕」を張り替えます(日本で言えば「門松」を立てるようなもの?)。
夕食(团圆饭または年夜饭と呼ぶ)は、最も大事なイベントです(「年越し蕎麦」、、、)。
「团圆」の意味は、全ての家族が一緒に食事をする、という意味です。
夕食のあと、子供たちはシャワーを浴び、新しい着物に着かえます。
そして、午前0時、爆竹花火を一斉に打ち上げます。
新年の最初の挨拶は、新年快楽(あけましておめでとう)、恭喜発財(「発財」だけだと「お金を貯める」の意味、それが「あなたに幸福を」になるわけで、いかにも中国!)。
客家(移動民族、簡単に言えば中国のユダヤ、Mの一族もそうです)の正月料理のメインは、肉団子です(これが最高に美味しい!!)。7人家族で、5000gの葱、5000gの肉、1000gのサツマイモが、その材料です。
 



肉団子、中国名は「肉丸」(撮影:Monica Lee)



Mの実家の春節期間の食卓(撮影:Monica Lee)

春節初日は、みんな、夜更かしするので、2日目はお昼ごろまで寝ています。この日は、親戚を訪ねなければなりません。でも、普通、若者はクラスメートや友達に会います。年寄りは家に居ます。畑に行ってはなりません。また、物を捨てることも禁止されています。
叔父さんや叔母さんに、贈り物をします。園芸植物だったり手作り菓子だったりしますが、ほとんどの人は、果物と贈答飲料セットです。年寄りや子供たちには、紅包(お年玉のようなもの?赤は中国のラッキーカラー)をプレゼントします。
どの紅包にも、願いを込めます。お年寄りが健康であるように、子供たちがすくすく成長するように、よく勉強するように、、、。
広東省の会社では、最初の仕事日は仕事をせずに、経営者が従業員に紅包を贈ります。その中には、お金も入っています。ラッキーな人は100元(約1600円)を得ますが、ほとんどは10元です。

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おいおい! 筆者は、春節期間中、ほぼ「白いご飯」だけで、独りぼっちで過ごしたというのに、なんという幸せそうな光景でしょうか。



前々回の記事で“「内陸農村部」と「沿海都市部」の貧富の格差”に関する話を書きました。

本来「田舎」と「都会」は全く異なった次元に成り立っているはず。なのに両者を無理やり同じ土俵に上げて「格差」を扇いでいるような気がする。問題にしなくてはならないのは「地方の遅れ」ではなくて「都市の歪な繁栄」ではないのだろうか、と。

「毎日同じ服を着て出社するのは、社会人として恥ずべきこと」などと言う人がいます。筆者には、どこからそんな発想が出てくるのか、さっぱり解りません。

多様なファッションを否定はしません。でも本来、そんなのはお金をかけなくても出来るはず。バッグにしても、100円ショップの「布製手提げ」と、何万円もするブランド品と、どこが違うのでしょう。

社会の常識は、虚構の価値観に基づいた「現実」のに成り立っている、と考えても、さほど間違ってはいないと思います。でも、一般の人の多くは、そうは思っていない(思ってはいても行動には示さない)のかも知れない。そこから外れると「負け組」「異端者」とされてしまう。

筆者が無知で鈍感なだけなのかも知れませんし、単なる貧乏人の妬み・僻みかも知れません。

それで、視点を明確にするために、まず筆者自身のことを書いておくことにします。

一応、ホームレスではありません。かつ、「酒」も「たばこ」も「女」(若い女の子は好きですけれど、笑)も「ギャンブル」もやらない、真面目?人間です。従って、中国や東南アジアに、女(男)や薬(ヤク)が目的で出没する日本人は、好きにはなれません。

不登校児の走りで、中学は1年までしか行っていません。自分の部屋で60年代前半のアメリカン・ポップスを聞いているか、日本アルプスの稜線にテントを張って自炊生活をしているか、どちらかだった10代の頃。考えてみれば、国内外の差はあっても、70歳になる今も同じことを続けているわけです。

まあいわば、「生涯一引き籠り児」+「生涯一放浪者」といったところでしょうか。ちなみに、一般論で言っても、「引き籠り」と、「世界貧乏旅行」に挑戦している若者たち(年配者も)は、本質的な部分で良く似ているように思えます。

40年近く、この世界(活字業界)で生きてきました。大手の出版社を中心として20冊ほどの単行本を刊行し、朝日・毎日・サンケイ・東京などでの新聞連載も行ってきました。

しかし、その期間のほとんどを中国の山野で野生生物を探索していたのにも関わらず、メディアから依頼を受ける記事は中国関係以外が大半。「日本の蝶」とか「小笠原の自然」とか「アメリカの植物」とかの話題を、中国の各地をうろつきつつ、安ホテルに籠って執筆してきたのです。

この短期連載の最初に記したように、活字文化自体が斜陽化し、若者の多くが野生生物や国外の出来事に興味を示さなくなってしまった“ドメスティック&インドア傾向”の今の日本で、「中国の野生生物の活字媒体での紹介」が生業として成り立つわけがありません。 




筆者とドイツ人バックパッカー3人組。中国国境に近いベトナムサパにて。

そのため、お金に全く縁のなくなってしまった筆者が、お金のことを取り上げるのは場違いかも知れないのですが、、、。

最近日本でも「下流老人」とかの話題が姦しいようです。月収10万円、いや20万円近い収入でも下流のカテゴリーに入るのだそうです。筆者からすれば、一体、日本人は、どれほど贅沢なのかと思ってしまいます。

日本では東京郊外のアパートに住んでいる筆者の場合、家賃(少額の年金と相殺)以外の収入・支出が約10万円。事務所代わりのスタバ代、交通費、食費、光熱費、たまに銭湯に行きます。これでも結構贅沢ですよね。自分では別に下層だとは思っていません。

むろん、医療のことなどを考えれば、そうも言っていられない、でも、それを問題にしだしたなら、きりがないでしょう。非常に重要なことですが、とりあえず割愛して話を進めます。

おしゃれをしたり、スポーツをしたり、音楽を聴いたり、旅行に行ったり、、、それらを否定するつもりはありません。生きていく上に置いての重要なファクターには違いないでしょう。でも仮に月収20万円もあれば、(基本生活費からの差額で)大抵のことは出来るのではないでしょうか?

確かに日本の物価は高いと思います。国外から戻ってきたときは芯から腹が立つほど異常に高く感じます。特に交通費と宿泊費。例えば、広州-桂林間の新幹線料金が2500円弱なのに対し、ほぼ同程度の距離の東京-神戸間は2万円近くします。宿泊費は、中国の地方都市では、駅前のかなり豪華なホテルでも1500~2000円ほど。日本なら1万円近くすると思う。

でも食費とか光熱費とか衣服代とかは、安く抑えようと思えば抑えることができるはずです。

一体、みな何にお金を必要としているのでしょうか? 

ステレオタイプの意見があります。日本人はお金に対して恬淡、中国人はお金に執着する。大方の日本人の中国人に対する印象のひとつは「お金のことしか考えていない人種」、ということでしょうね。一応著者もそう思います。

「これは何ですか?」
「100円」

「バスターミナルへの行き方を教えてください」
「(バス代は)200円」

何でもお金のことが、最優先で出てきます。

生活の中でのお金に対する距離感が極めて近いのです。

でも、正確に言えば、単に密着しているというよりも、その状態を「開けっ広げにしている」ということだと思います。日本人だってお金に密着した生活をしています。しかしそのことを表には出しません。お金は不浄な存在とされ、お金にかかわる表現を軽々しくすることは「卑しいこと」とされるのです。

中国人は、お金の話をすることを、悪いこととも恥ずかしいこととも思っていないのではないでしょうか。

原稿料だって、支払い期日になれば確実にくれる日本と違って、踏み倒されてしまったりすることもあります。しかし、こちらが困っていれば、支払い期日が来なくても、気前よく前渡ししてくれたりもします。

筆者の友人の大学生4人組が音楽バンドを組んでいて、あちこちでライブを行い稼いでいます(本当は違法)。結構金になる、、、、はず、なのですが、2度に1度ぐらいの割合でギャラに係わるトラブルを起こし、支払って貰えなかったり、仲介人がギャラを持ってとんずらしたり、、、理不尽ではあっても、自分たちの置かれた立場上、正式に訴えることも出来ず、いつも頭を抱えているのです。

白人2人黒人2人の構成。興行元が「メンバーに黒人が混じっているからギャラは払えない」などと、ここが21世紀の地球上なのかと疑うほどの、信じられない暴言を平気で言い放つのです。

最近、日本でも中国でも「黒塗顔」批判に対する是否の議論が起こっています。「過度の自主規制はかえって問題の本質を見失う」という意見には賛同できる部分もあります。しかし「現実に」このような背景があるのです。そのことを知っておくべきだと筆者は思います。

中国は今、猛烈な勢いで“不良外国人”の締め出し(および彼らの集まる場所の撤去)にかかっています。筆者のごとき「低学歴」「低収入」「高年齢」の日本人は、絵に描いたような典型的不良外国人でしょう。一部のアフリカ系の人々も、狙い撃ちされているように思えます(日本における現状も似たようなものでしょうけれど)。

筆者は、一時、昆明の結構メジャーな出版社で、半ば専属ライターという形で記事や写真を提供していました(これも本来は違法?)。原稿料は大抵の日本の出版社などより良く、しかも気前よく支払ってくれます。

自分で書いた記事を自分で英訳、それをMが中国語訳をして、執筆料と翻訳料の両方をせしめるのです。数年前、最初に数10頁を引き受けたとき、雑誌が出た直後に、数十万円が突然Mの口座に振り込まれました。思いもせぬ金額だったので、Mは狂喜乱舞、息せき切って僕に知らせに来ました。

その後何度か寄稿を続けていたのですが、ある時(一昨年)、突然出版社が消えてしまいました。ちなみに、その出版社を紹介してくれたのが、筆者が常宿としていたユースホステルのオーナー。同じ頃、そのユースホステル自体も、突然閉鎖されてしまったのです。

やろうと思えば規則外のことでも簡単に出来る。でも、当然可能なはずのことが理由もなく出来なかったりする。なんでもあり、要は出鱈目、ということなのです。

お金に対しても、もろに興味を示すわりには、意外に執着していないような気もします。お金が常に表に出て、目まぐるしく動き回っている、といった感じ。

日本人は「奥ゆかしい」ということになっています。でも、言い換えれば、感心ないそぶりをしているだけ、(「守銭奴」とまでは言いませんが)内に静かに執着しているわけです。

「中国の貧富の格差」を考える際、そのような、お金に対しての感覚の日中の違いも、念頭に置いておくべきでしょう。




銀行のATMから出てきたニセ札。 



食堂の壁に貼られていたニセ札のお知らせ。

ご存知のとおり、中国では昔も今も、ニセ札が横行しています(スマホ決算の利点は、それを避け得ること、もっとも新たな手口が出てくることでしょうけれど)。

筆者も、何度も掴まされたことがあります。去年は20元という、実にせせこましい金額をやられました。でも額の多少にかかわらず腹立しい。

上海のユース・ホステル(国際青年旅舎)で宿泊費を支払った時のおつりの20元。向かいのコンビニでニセ札だと言われ、すぐにフロントに戻って取り換えを求めました。

スタッフ曰く、「確かにニセ札のようだ、我々が渡したことも確かだ、しかしあなたは受け取った、もはや我々の関与するところではない」。

さすがに腹が立って、Mに電話で通訳をして貰って、徹底闘争するつもりでいました。しかしMは、「怒っちゃダメ!それが中国のカルチャーなのだから諦めなさい」と言います。

そ、そ、それは、あんまりな、、、、。でも、全然説得力がないようにも思えるのだけれど、案外、凄い説得力であるような気もしてきます。

中国における物事の答えは、日本式の思考パターンでは割り出せないのです。

例えば、前々回の記事で、トイレと交通事情について取り上げました。トイレに関しては、官民一体となって美化に取り組み、日本より遥かに多くの清掃員が終日一生懸命掃除をしているのにも関わらず、いつまで経っても汚いまま。チケット売り場も、改善に改善を重ねる努力をしているのにも関わらず、いつまで経っても混雑はなくならない。

行数の関係で削除せざるを得なかったのですが、読者に一番伝えたかったことは、それらの事実の紹介でも、具体的に何が問題で、誰が悪いといった原因を探ることでもなく、「よく分らないのだけれど、はっきりしていることは、どこかが、何かが、おかしい」ということなのです(その結果、チケット完売のはずの列車が、がら空きで走っていたりします)。

地下鉄の乗り換え時にも、そのことは強く感じます。香港の地下鉄の場合は、路線ごとにプラットホームが上手く組み合わされていて、乗り換えがスムーズにできるのに対し、深圳の地下鉄での乗り換えは、困難を極めるのです。

乗換駅での案内板に示されているのは、プラットホームの番号だけ(過剰なほど大きくて数多く目立つ)。肝心の路線番号がどこにも見当たりません(隅っこに記されていたりするときもありますが)。これでは、どのプラットホームに行けば良いのか、さっぱりわからない(プラットホームの番号を示したところで何の意味があるのでしょうか?)。

要は、単純に間抜けなのです。何事においても頑張ってはいるのだけれど、どこかが抜けている。良かれと思って、もがけばもがくほど、根本的な部分で破綻をきたしてしまう。

最新設備が整い、数10分置きに掃除を繰り返している新幹線(固有名詞としてではなく「新しい幹線」という意味)のトイレが、うんざりするほど汚いのと対照的に、最近の長距離在来線車内のトイレは、とてもきれいです。

昔は汚かった。改善に向けていろいろと試行錯誤してきたのでしょうけれど、新幹線のように予算を割くわけにも行かず、ギブアップしたのでしょう。

その結果、在来線列車内のトイレは、線路直結便壺と蛇口とバケツだけ、という超シンプルなスタイルになりました。各自バケツで流す。これがピタリ決まって、実にクリーンになった。中国のトイレ中最も清潔といっても、過言ではないと思います。

上記の話は、「格差」解決の、一つのヒントと思ってください。




深圳地下鉄駅。プラットホーム番号だけで、肝心の路線番号がどこにも示されていない。




★連絡先
infoあayakosan.com あを@に変えて




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