青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

2021.7.6-7.9 日記(上)

2021-07-09 20:29:15 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記




雨が続いていて、連日パソコンに向かっています(スタバ、マクド、ジョナサン)。時間の振り分けは、「裏山探索8時間」「パソコン4時間」ということで、山(丘)から下りて来てから、どこかでWi-Fi拾って、調べものとかブログ書きとか、毎日慌ててしているわけです。

本来なら、逆パターン、「探索4時間」「パソコン8時間」ぐらいにしたいのですが、一度探索に出かけると、8時間どころか10時間、12時間、、、とか歩きっぱなしになります。

でも、ここんところずっと雨で、6月半ばからは(本来ならば一年で一番大事な季節なのですが)ほとんど探索に出かけていません。6月17日に「54種目」のオオチャバネセセリを撮影してから、一種も追加出来ていない始末です。

と言うわけで、インターネットでの調べものやブログ書きに関しては、今は時間がたっぷりあります。逆に言えば、時間があるので、あれもこれも(ことに調べもの)やろうとしてしまう。ブログも、並行して幾つかの話題を書き出して、なかなか「完成」に至りません。時間のない時(「探索」から戻った後書くとき)は、無理やり“完結”にしてしまうのですが、「明日回しでも良いかな?」と思っていると、どんどん未完成記事が溜まっていきます。

ことに「日本の蝶:イチモンジセセリ(オオチャバネセセリ記事の続き)5」は、8割がた完成しているのだけれど、なんだかんだで付け加えたいことが出てきて、どんどんアップが遅れて行きます。明日にはアップします。今日は、ここ数日書きかけた文章を適当に寄せ集めてアップしておくことにします。

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久しぶりに電車に乗って遠出(河辺⇔吉祥寺)したのですが、切符が上手く買えない。

“昔は良かった”と言う気はありません、、、←ウソです(笑)。声を大にして言います。“昔のほうが良かったみたい”と。もっとも、僕の言う「昔」は、「我々年寄りの若かった頃」というのではありません。戦前、明治時代、江戸時代、日本の神話時代、ギリシャ文明の時代、人類出現の頃、、、、全部ひっくるめての「昔」です。

時間は、本当に前に進んでいるのでしょうか? なんか、どんどん後退しているように思えるのですけれど。

どういうことかと言えば(前にも何度か言ったけれど)、JRの切符の自動販売機が、カード対応機を重視することで、現金対応機がどんどん減っている。例えば、3つある販売機のうち1つはチャージ専用、2つが兼用だとした場合(それも現金可能なのが減って一つはカード専用になったりしている)、兼用機でも実際に買っているほとんどの人がカードを利用しているわけです。いちいちチャージして、それから購入するので、現金(主にコイン)利用者より、ずっと長い時間を費やしています。待っていて、電車に乗り損ねたりします。

現金専用機とまでは言わないけれど、現金でも使える兼用機は、もっと増やして欲しいですね。最初から「現金は使えない」のなら、それでもいいのです。対応せざるを得ません。でも、「現金が使える」という前提なんだから、現金もスムーズに使えるようにしてほしい。

少し話が逸れます。

大阪の「表現の不自由展」。吉村知事は、こんな風に言ってますね。
>表現の不自由展をやってる方が自分たちが正義だと思っているのは分かるが、そうじゃない人の正義もある。

“今の日本の社会は「表現の自由」の中に置かれている”、と信じている人たちが大半なのでしょうね。ひいては「(社会の安定のために)表現の自由は限定されていて当然」と認識する自由(正義)なわけです。そうであることは、結局“「表現は不自由」なのではないか?”とアピールする側の自由(正義)と、両方あっても良いのですよね。だったら、「表現の不自由」を話題にして展示することに、何ら問題はないのではないでしょうか?

吉村知事の言う「差し迫った危険が生じる」可能性を鑑み云々、、、それはそうだと思います。でもこれを言うのは「そんなこと言っていると誰かに殺られるかも知れないよ」というのと同じことですね。軽々しく発言するべきではありません。

ちなみに、皆忘れていることがあって、、、、「表現の自由」なんて、実は最初からないんですよ。

プラットホームでの一人言、飲み屋でのおっちゃん同士のトーク、、、そこいらへんは自由でしょう。でも、視聴者がいる会場とかマスメディアとかで発言することは、限られた人にしか出来ない。現実的には、表現の自体が制約されていると変わりないと思います。不特定多数の人々に向けて発言出来るのは、どの陣営であるかに関わりなく、「権力」を持っていなくてはならないのです。

補足しておくと、「表現」自体の自由はあっても、「伝達」「拡散」の自由はない、ということですね。駅のプラットホーム大声で叫んでも、ブログで様々な発言をしつづけても、媒体(「聞く」「読む」)の環境が整っていなければ、実質「無いこと」に等しいのです。「自由」とは、「力」によって配分されるもの(いわば「特権」の産物)だと思っています。

ちなみに、僕は想うところがあって、昨日、“緑の森”の腕章を郵送で送り返しました。(意に反して)それを持っていることで(しかもここんところ行かずにいる)、気持ちが重苦しくなってしまう。決して敵意とか、嫌味とかじゃないのです。スタッフの方は良くしてくれるし、有難く感謝しています。腕章があることで(特に、自然保護区の内部ではなく民家と隣接した入口付近をうろついている時に)不審者に間違われることなく行動がしやすい事も確かですし。

でも、僕のポリシーや価値観(そんな大袈裟なものではないけれど)においては、腕章付き(特権)で行う「自然観察」は、どうも心地が良くない。対象を「自然」とは捉えず、個人や特定の集団(行政など)の持ち物、と認識すれば、ある程度の納得はいくのでしょうが。

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これまでにも幾つかの記事に書いたのですが、数年ほど前、中国の各地から、「現金」が姿を消してしまいそうになった事がありました。(“一斉に”と言えそうなほど急速に)末端売買の電子化が為されていったのです。日本の、ことに若い世代の社会の先端を行く人々は、(中国全体に対する評価は別として)そのこと(迅速に新技術が実用化されていくこと)を素直に評価し、日本も見習わねば(遅れをとっては)ならない、と考えを新たにしたようです。

とにかく、下町のそこいらの屋台の支払いも、“ピッ”という電子マネー?で済ませます。現金で支払っているのは僕ぐらいのものです(お札は皆滅多に使わないので増刷されることなくズタボロになってしまっている)。スタバとかでも現金支払いを拒否されます。

それで、スタバのスタッフと喧嘩したことがあります。店長が弁明するに、「ごめん、使えないわけじゃない、でも誰も使わないから、お釣りを用意していない」(その時は店長さんが自分のお金でお釣りを立て替えてくれた)。

暫くして再訪したら、「現金も使えるようになったので安心してください」と。国から全飲食店に「現金のお釣りも用意しろ」と命令が下ったそうな。カードを持ってないお年寄りや貧乏人もいるので、必ず現金も使えるようにしておくこと、という命令です。

中国の共産党一党独裁体制を認めるわけじゃないですが、空気だけに乗っかって、建前と現実が異なる「体制下」にある日本より、マシだと思っています。

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ということで、久しぶりに吉祥寺のヨドバシカメラに行ってきました(電車賃が、、、(;´д`))。

ヒグラシの鳴き声を録音するために、K氏から送って頂いたスマホ(中国メーカー?の「小米」、、、そもそも「スマホ」が何を指すのか僕は認知出来ていません)の扱いに、四苦八苦しています(「途方に暮れている」と言って良いくらいの状況)。

録音するために、まず最初にやらねばならぬことは次の3つ。
⓵充電
⓶開く
⓷閉じる

それが(信じて頂けない事でしょうが)K氏に教わったり、参考書を読んだりして、10日間あまり必死に取り組んだのだけれど、出来ない(今回に限らず、僕が新しい電気製品を使う際は、いつも同じような局面に対します)。

原因は次の3つが考えられます。
A 僕の認知能力不足。
B 機械のアクシデント。
C いわゆるオカルトの分野。

それで、ヨドバシカメラのスタッフに教えを請いに行ったのです。

Aでしたね。
(ごく一部はBCが関わっているもかも知れないとしても)

対面で、感覚面を主体に置いて教わって行かねば、どんな参考書や案内書見ても「最初のところ」で“認知”のスイッチが入らないのだと思います。

一度“掴め”ば、あとはスムーズにいく、その“掴み”が、難しいと言えば限りなく難しいわけだし、簡単と言えば余りにも簡単なわけです。

物事を理解・認識する頭の構造(考える仕組み)が、僕の場合ほかの(当たり前にスマホを使う世界の中で生きている)人と違う、いわゆる「発達障害」なわけですね。

「道のない山を歩けても、町の中では迷う」
これが僕ですね。

「道のない山を歩けること」
「町の中で迷ったりはしない」
ともに「能力」のひとつだと思います。

両方の能力を備えている人は少ないのではないでしょうか?
現代社会(スマホを普通に使ってる社会)では、上は不要で、下は必須です。

その“必須”を目指しての、具体的な結果。

録音(⓵⓶⓷および⓸静止画像撮影⓹動画撮影&録音⓺収納)までO.K.です。出来ないことは、収録した動画(動画撮影そのものは出来る)の再現だそうです(録音だけなら再現も可)。対応するアプリが入っていないからなのか、それ以外の原因なのか、現時点では不明だとのこと。今のところ、録音さえ出来れば良いので、それほど気にすることはないでしょう。

とりあえず、最初の段階(⓵電源⓶開く⓷閉じる)は、習得出来ているのではないかと思われます。1歩(7~8歩ほど?)前進です。⓻送信?と⓼ユーチュブ機能に設定については、これから考えます。

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梅雨の晴れ間を縫って、一応裏山(霞丘陵や青梅の森の東端)にはチェックに訪れているのですが、ここしばらく蝶の姿を見ません。オオムラサキポイントにも、オオムラサキどころか、ボロヒカゲ3種(もう第一化は完全に姿を消していると思う)はもとより、オオスズメバチさえいない。冒頭に記したように、もう半月以上の期間、54種から一種も増えていません。

6月後半から7月前半にかけては、一年で最も蝶の種類が多い時期のはず、、、、なんですけれど。今年は季節の動きが例年とは違っているみたいなので、まあ、そんなことも有るのかも知れませんが。

そういや昨年6月下旬、モニカを雲南の蝶撮影に派遣したのですね。例の10万円の支給金の半分を当てて。

モニカは、常々梅里雪山にもう一度行きたい(前回は2013年秋)と言ってたし、あと、高山シャクナゲも見たい、というので、当初7月下旬を予定していたのですが、一か月早めて6月下旬にしたのです。

梅里雪山(明永氷河下や雨崩村)における蝶の出現盛期は6月上旬だし、高山シャクナゲは5月、6月下旬でギリギリです。

結果は惨敗。いろんなことで、当てが外れた、と言ってよいのでしょう。コロナでの行政地域越えごとのチェックが厳しくて、梅里雪山まで辿り着くのが難しかったこと。それで香格里拉に停滞しての探索に切り替えたわけですが、明永氷河下より標高が1000m高い香格里拉では、時期が早すぎた?わけです。

それに、モニカが使っていたカメラを僕がぶんどったので(日本からは届けようもない事だし)、携帯電話(スマホ)で撮影することにしたのです。スマホも機能的には結構優れもので、画像のクオリティモなかなかなのですが、だとしても、行く先々で「どんな目的で来たの?」と聞かれるわけですね。その都度「蝶の撮影」と答えるわけですが、カメラは持っていない、、、、、。さぞ肩身の狭い思いをしたであろうことが想像されます。

でも頑張って一週間ほど蝶を探し歩きました。結局、高山病+日射病にかかって、ほとんど何も写せないまま、退散したわけです。

標高と季節(各種の蝶の出現サイクル)の問題もあるには違いないでしょうが、でも、たぶんそれだけが要因ではないと思います。一言で言えば、「たまたまいない時期だった」。

その2年前、蝶友のNM氏とHF氏が、梅里雪山から香格里拉にかけての蝶探索に日本から遠征しました。7月のはじめです。そしてこちらも結果は惨敗。

僕が、たった一か所(10m四方ぐらい)で、100種以上の蝶(その中には、新種記載以来100年余ぶりに記録された何種かの超希少種も含む)を撮影した、梅里雪山氷河下の水溜まりでは、僅か2~3種の蝶にしか(むろん目的の種にも)出会えなかった。そのほかの場所でも、全くと言って良いほど蝶がいなかった、、、、。

話が変わりますが。この間、愛宕山(標高約210m、霞丘陵の主峰?)で地元の蝶愛好家KM氏と数時間に亘って蝶の話をしていました。彼のメインフィールドはラオスで、以前は中国の奥地にも度々行ったそうです。

そこで、一回の調査行の予算についての話になりました。彼曰く、自分は裕福ではないので、極安の予算
で押さえている、と。その極安予算というのが500万円だといいます。

え~~~?  僕はせいぜい5万円ですよ。前々年は、その5万円さえ用意が出来ずに、目的地への遠征を諦めて「香港デモ」の取材に切り替えたわけで。

嘘でしょう? 5万円で行けるわけがない、と彼は言います。あれやこれや、(奥地の探索行は)なんだかんだで、あっという間に数100万かかってしまう。

確かにそうかも知れません。でも僕は、本当に5万円前後の予算で、いつも行動しているのです。

上記した、3年前に梅里雪山や香格里拉に遠征した両氏も、各200万円の予算だったそうです。むろん、彼らにとっても、200万円は大金です。僕を始め、いろんな人から前もって情報を仕入れ、万全の準備をしてアタックしたのに、結果は惨敗。ショックが大きかったそうです。

僕は彼らに言いました。そもそも、200万の予算が間違っている、さすがに2万円とまでは行かなくても、20万円くらいの予算で向かうべきだった、と。

お付きの運転手をつけて、その地方一番の高級ホテルに泊まって、(豊富な情報の許)目的の蝶がいるはずの場所をピンポイントで往復し、、、、僕に言わせれば、それがいけないんだ、と。

予算が無くて、ボロ宿や民家に泊まり、原則ローカルバス利用、それにヒッチハイクや徒歩を加えて、何日もかけて移動し、なんの情報も持たないまま、同じ場所に何日も滞在し、非効率的この上もない行動パターンで、、、、でも非効率的(その積み重ね)だからこそ、(他の人が得られないような)大きな成果が得られる。

むろん、もしもの事(逮捕たり)を考えれば、社会的な地位がある彼らの場合は、リスクへの対応の必然性が「青山さんの場合とは違う」ということは分かるんですけれど。

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これも何度も書いてますが(笑)、天気予報が当たらんです。ことに今は梅雨の真っただ中なので、(例え一日のうちに何時間か晴れ間があるとしても)「雨」としておくに、しくはないわけです。「晴れ」と予想して「雨」だった時と、「雨」と予想して「晴れ」だった時と、世間の反応(それに対する責任の所在)は全く異なります。世の中、全て「リスク回避」で進んでいるので。

「一日中晴れ」と「一日中雨」は、どう違うのか?

昔、屋久島で常に経験していたことですが、、、。
「屋久島はいつも雨」は、事実です。
「屋久島はいつも晴れ」、これも正しい。

島のぐるりと360度、どこかで雨が降っていて、どこかが晴れている。
一日24時間の間、どこかで雨が降って、どこかで晴れる。

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梅里雪山では、天候は余り関係がないようです。曇っていても晴れる。晴れていても曇る。ころころ天候が変わります。氷雪の山嶺は極寒の世界ですが、メコン川沿いは亜熱帯の延長、、、夏の期間は、天候に関わらず結構あったかいのです。

結局、同じところに居座って、終日様子を見続けるしかありません。正確には「“毎日”一日中」です(日によって状況が異なる)。

そのうち、ある時間帯に、種によっては(例えばタテハチョウ科だと「ニセアサギマダラミスジ」「ユンナンアオイチモンジ」「チベットスミナガシ」とかの超希少種)それこそ一瞬の間だけ、この場所に吸水に現れるのです。

トータル100種超が入れ替わり立ち代わり現れ、凄い時には10種以上の数100個体が同時に一堂に会します。一方、いないときは、蝶の姿自体が一頭もない。

いわば、ここは大食堂です。周辺の急傾斜の森林のどこかに、100種余のそれぞれの蝶たちの本来の棲み家があります。食事の時だけ、ここに集まるのです。

梅里雪山の例は極端ですが、アパートの裏山だって基本は同じです。蝶がいる時はいるし、いない時はいない。

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これまでに「アパートの裏山とその周辺地域」で撮影した54種の蝶は、ピンポイントで狙ったのではありません。(事前の情報や目的を全く持たずに)同じ場所に何度も通って、偶然出会ったものを撮影したのに過ぎません(50種目辺りからの2~3種は一応狙った)。いわば、無欲の成果。しかし(むろん時期的な焦りもあるのですけれど)ここしばらくは、場所とか種とかを特定して、効率的な成果を狙っているのが、かえって良くなかったのかも知れません。この半月間、54種から進まないでいるのです。

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時間切れ。以下は、明日以降にアップする予定です。

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一年前(2020.6.28)のモニカによる写真(確か去年同じのを紹介済み)。香格里拉。標高3300m超の炎天下に立ち続けて、高山病にかかり、日射病になって、あげくほとんど蝶に出会えぬまま帰ってきました。









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