青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

近況報告。。。

2018-12-24 11:17:06 | 雑記 報告


もうすぐ、クリスマスに新年です。


小七に西友ストアで買った980円のクリスマス・クッキーセットをあげようとしたら、モニカに「甘いのはダメ」「卵製品はダメ」「もちもち触感のはダメ」「油で揚げたのもダメ」と言われて、大半を捨てられてしまった(モニカが自分で食べてた、笑)。

ボロアパートの部屋に籠って、日がなパソコンに向かっています(Wi-Fiが使える)。スタバに行かないので、無理矢理クリスマスソングを聴かされなくて済みます(スタバでは2か月前からずっとかかっていた)。

正月恒例、といえば、前回の「現代ビジネス」記事で、「ヘツカリンドウ巡り」(ただし沖縄など南の島限定)を紹介したのですが、沖縄絡みで言えば「安仁屋算」(知らない人はネットでくぐってください)ですね。

一足早く、来年の順位予想(セリーグ)が出ていました。その安仁屋宗八さん(74歳)と小山正明さん(84歳)。

小山さん、お元気そうで良かったです。サンテレビで、ムッシュ(関西では「かまやつひろし」ではなく、“牛若丸”吉田義男のこと)と一緒に解説をしていたんだそうです。いちど聞きたかったなあ。

小山正明、村山実、ジーン・バッキー、、、子供の頃の僕のレジェンド。名前を並べるだけで、得も言われぬ懐かしさが込み上げてきます。思い出は限りなくあります(ほかの昔の記憶がほとんどなくなっているのにも関わらず)。僕は小山投手のファンだったのですが、脳裏に焼き付いているリアルタイムの映像は、村山とバッキーです。

マモルおじちゃんに連れられて、最初に甲子園に観戦に行ったのは、たぶん僕がまだ小学生の頃で、村山が新人の年だったと思います(1959年?)。確か阪神・巨人戦のダブルヘッダーで、第一試合の先発が小山、試合の終盤、ブルペンで村山が投球練習を始めて、その豪球にファンが一斉にどよめきました。マモルおじちゃんが「村山、凄い球を投げるなあ」と感嘆の声を上げていた。

僕の脳裏に鮮明に焼き付いているのは、ナイターの照明の中に浮かび上がる、ブルペンの村山の雄姿と、マモルおじちゃんの弾んだ声。第一試合の結果も第二試合(たぶん村山が先発したはず)の結果もまるっきり覚えていない。まるで額縁に切り取ったように、その一瞬の場面だけが再現されるのです。

母に連れられて、しょっちゅう元町通りに行っていました。何故か、いつも元町駅から神戸駅への道順。最後に三越に寄ります。やや神戸駅寄りに差し掛かった時に、毎回のように母が口にしたのが、「ここが村山のお店よ」、、、、。何の店だったか覚えていないのですけれど、その店の周辺の佇まい(光や空気)だけは、今でもはっきりと想い浮かべることが出来ます。

バッキーで思い出すのは、1962年のセリーグ初制覇時のリーグ優勝決定試合。当時岡本にあった甲南中学の(たしか高校・大学と共通の)学生食堂でテレビ観戦していて、優勝決定の瞬間、喜んで万歳した時に、持っていた1000円札(100円札だったかも)を放り投げてしまい、必死になって探した。

その試合で、まだ主力投手にはなっていなかったバッキーがリリーフ登板(確かめていないので正確ではない可能性大)、意外な好投をした、という記憶があります。

母は、根っからの阪神ファンで、従って巨人(正しくは「読売」というべきでしょう)が大嫌い。あと一つ大嫌いなのが、(当時の多くの日本人に共通するのでしょうけれど)「ソ連(現ロシア)」。終戦の際、(戦争自体にはほとんど関わっていないにも関わらず)横から領土をぶんどって行った事に対する、恨み辛みです。それで、しょっちゅう「巨人」と「ソ連」を言い間違えていた(笑)。

二度目のリーグ優勝(1964年)のあと、日本シリーズでパリーグの覇者・南海と戦って敗れました。この年には、バッキーは村山と並ぶエースになっていて(前年に小山は山内との「世紀の大トレード」でパリーグの大毎に移籍していた)、南海のエース、スタンカと投げ合って敗れました。母はそれが悔しくて仕方がなく、スタンカのことを、ずっと「スカタン」と呼び続けていた。

ずっと後、1995年の阪神大震災の直後、テレビで村山がインタビューを受けているのを見かけました。甲子園の近くの自宅?の脇で、なぜか車の中で避難生活を続けている。これは一体何だったのでしょう?

しばらくして村山は亡くなります。その数年後、あるテレビ番組で、小山・バッキー・江夏の、阪神三大エースが甲子園に会して思い出話を語り合う、という企画がありました。新聞のテレビ欄でその放送を知って、(テレビを持っていない)僕は居ても立ってもいられず、友子さんを東京から鎌倉に急遽呼び寄せ、テレビを見ることの出来る自宅から一番近いラブホテル(もちろん何にもせずテレビを見るだけです、安いので国外に行く前の荷物整理などの際、いつも2人で利用していました、笑)に駆けつけて、釘づけになって画面を見続けました。

番組のスタートに、小山がポツリと漏らした言葉が印象的です。「一人足りない、、、寂しいのぅ」。村山は、現役引退後、ことあるごとく「いつも“小山さん打たれろ”、そればっかし考えていた、小山さんがノックアウトされれば、俺に注目が集まる」と言っていました。正直な人ですね。

小山が阪神を去ったあと、村山・バッキーと三本柱を形成したのが、高卒で僕と同じ年の、江夏豊です。やがて江夏は、孤高の大エースと成ります。巨人9連覇の頃で、向こうのエースは堀内。江夏とのエース対決で何度も煮え油を飲まされて、堀内は母にとっての最大の悪人となってしまいました。

江夏大エース時代に、広島カープから阪神に移籍してきたのが安仁屋です。この頃の安仁屋は力が衰えかけていたのですが、阪神で復活して、最優秀投手賞(防御率1位)とカムバック賞を獲得します。安仁屋といえば、外木場義郎と共に広島のダブルエースとしての印象が強いのですが、タイトル獲得は阪神時代だけなのです(ちなみに安仁屋23勝、外木場21勝した時の最多勝は、江夏の25勝)。

冒頭の「来年のセリーグ順位予想」に戻ると、小山さんが「1位巨人、2位広島、3位阪神」、安仁屋さんが「1位広島、2位阪神、3位巨人」。

ヤフコメのコメントを見ると、「阪神の順位が高すぎる、この老人たちは、何にも分かっていない、評論家として失格」「阪神Aクラス予想する解説者って野球をちゃんと見てないでしょ?」「この爺さんたちに何が分かるのか?!素人の予想通りの答え、しかもこの爺さんが予想しそうな順位まで当てられるレベル」、、、真っ当な意見ですね。でも、「何にも分かっていない」のは、もちろんコメントしている人たちの方。

「毎年このおじいさま二人は、阪神、広島、巨人を上位にしているだけで、なんの予想にもなってない気がする」のコメントのリコメントには、こんなのも。
「様式美ですね」
「それを分かってて記者は依頼するし、読者も分かってて読んでるし、様式美ですよ」

小山さんも安仁屋さんも、これからもお元気で長生きしてほしいですね(僕も似たような立場にありますが、笑)。


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