きのうの朝日新聞に、高齢者が右翼的であるとの指摘が、期せずして二人からあった。1つは、《耕論》の『「古き良き日本」の喪失感』の鈴木大介であり、もう一つは、読書面で『日本人は右傾化したのか』(田辺俊介編著)を紹介する斎藤美奈子である。
はっきりといって指摘がショックであるが、考えてみれば、自民が政権を長く握っていたのだから、昔から、国民の多くが右翼的で、国旗や国歌好きの日本人であっても不思議ではない。戦争犯罪者の岸信介が首相になる情けない国なのだ。
じつは、きのう、田舎の育英会と県人寮の111周年記念式典で、ひさしぶりに都心に出かけて、高学歴高齢者の右傾ぶりにうんざりした。
壇上に上がるとき、会場に向かってでなく、壇上の奥に向かって一礼する。気になったので、周りに訳を聞くと、みんな、普段、国旗などがあるところで壇上に上がって話をするから、国旗がなくても、無意識に、見えない国旗に向かって一礼するのだろう、という返事である。
しかも、高学歴高齢者が壇上から話すのは、国のために勉学し、地方にも逸材があることを示せ、という趣旨である。国、郷土があるが、個人がない。
なぜか、講談師神田蘭を呼び、元士族の育英会の創設者の講談を企画するが、中身がない。それなのに、高齢者が大声で講談師に向かって「待ってました」などの掛け声を発する。気味が悪い。
《耕論》の鈴木大介は、自分の父が大学をでているのに、ネット右翼と変わらない排外主義的言動をすると言っている。そして、そんな父を「嫌韓ビジネス」に踊らされている被害者と思い、「テレビに毒づく父を無視せず、『その言葉はどうかと思うよ』と言えれば、父の変節を阻めたかもしれない」と悔やむ。
話を戻すと、記念式典には、元寮生の一割も出席していない。すると、出席するのは、最初からおかしな人である。出席者は役人とか役員とかやっていて、既成社会の「成功者」である。既成の社会を肯定することで、自己肯定するのだ。大声をだすことで、自分が強い男だから成功したのだ、と言っているのだ。
年を取ると、批判的思考力も衰え、過去の記憶に縛られる。高学歴高齢者の一定数は、はじめから右翼で、右傾化したのではないと思う。「変節を阻む」のではなく、もっと、若いときに、左翼への説得をすべきだったのだ。
さて、田辺俊介編著の『日本人は右傾化したのか』は、ナショナリズムを純化主義、愛国主義、排外主義にわけ、世代による意識の差、2009年、2013年、2017年の比較を行っているとのことだ。斎藤美奈子の紹介によると、「〈ナショナリズムに関しては、いまなお年長世代ほど保守的、右派的である〉半面、平成生まれの若者世代に特徴的なのは、権威に従属的な権威主義だという」。
短い書評なので「純化主義」「愛国主義」「排外主義」の区別はどんな意味をなすのか、また、鈴木大介のいう「古き良き日本」を想うのが、この3分類のナショナリズムのどれにあたるのか、わからない。私の観察では、「古き良き日本」を想うのは共同体願望からで、結果的に「排外主義」になりがちである。それだけでなく、「共同体願望」というもの自体も、県民根性(郷土愛)と同じく問題がある。自分がない状態の可能性がある。
若者世代が「権威に従属的な権威主義だ」というのは、その親の世代と学校に責任がある、と私は考える。若者は、国家権力と闘うことに、闘わずして、絶望しているのではないか。
謎が残るので、田辺俊介編著の『日本人は右傾化したのか』(勁草書房)をとにかく読むしかない。