猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

民主主義がまだまだ根付いてない日本の政治

2021-09-30 23:31:21 | 政治時評

新自民党総裁の岸田文雄は自分には「聞く力」があると言う。総裁選に臨んで、ことあるごとに、小さな手帳を取り出し、そこに聞いたことを書いているのだと言っていた。

じつは、私の住んでいる横浜市の郊外には、公明党のポスター「小さな声を、聴く力」があちこちに貼られている。

確かに「小さな声を聴く」というのも僭越な言い方だが、目的語のない単に「聞く力」というのは不気味である。岸田の場合は、自分を押してくれた各派閥の幹部の「要求を聞く」というように聞こえる。

私は政治に「効率」はいらないと思う。「聞く力」だけで「慎重」で動かないというのであれば、それはそれで良いと思う。しかし、政府や党の人事を論功行賞のように速やかに進めているのを見ると、「聞く」だけではないようだ。安倍晋三の操り人形になるかもしれない。

きょう、図書館で、2014年出版の田崎史郎の『安倍官邸の正体』(講談社現代新書)を見つけた。田崎はつぎのように書く。

《物事をなすのは組織ではない。物事をなすのは計画や制度ではない。物事をなせるのは、人だけだ。組織や計画、制度は人を助けるかじゃまするか、である。》

これは、コリン・パウエルの言葉だそうである。彼は、ブッシュ政権のときのイラク侵攻の総司令官である。軍人だから、「思想や哲学」でなく「組織や計画、制度」と「人」とを比較する。軍人は人を殺すことを旨にするから、「思想や哲学」は不要である。

ところが、田崎はなぜかパウエルのこの言葉が気にいり、「人だ、人だ」となる。政治は人間関係で、「思想や哲学」でない。これが田崎のものごとの見方の基本だ。

田崎にとって、政治の目的は、既存の日本社会の維持である。そのための経済発展、安全保障、教育である。「思想や哲学」は不要である。権力闘争にどうやって勝ったのかが、政治ジャーナリストとしての関心事である。

田崎は、安倍晋三の人間管理の仕方をほめる。ほめまくる。それと同時に、菅義偉をほめまくる。本書は三章からなるが、第三章は菅がいかに優秀な官房長官であるかである。

本書で得た収穫の1つは、安倍晋三も菅義偉もオリンピックの招致に大変な努力をしたということである。オリンピックは日本の経済を浮揚するという。だからこそ、今年、菅が医療関係者の反対にもかかわらず、オリンピック、パラリンピックを強行したのだと思う。

これでは、日本の政治は、500年以上前の戦国時代と変わらぬ野望をもったひとびとの権力闘争なのではないか。こんなものをエンターメントにしたてあげる日本のジャーナリストは何ものぞ。「聞く力」の岸田文雄はこれから何をしでかすのだろうか。少なくとも、核燃料サイクルをやめず、原発をどんどん再稼働することは間違いがなそうである。


総裁選の結果に思う、古いタイプの政治家が支配する自民党

2021-09-29 22:26:49 | 政治時評

今回の自民党総裁選は、自民党員でない私の目からみても残念なものである。

岸田は64歳の古いタイプの政治家である。自分を押し出さず、自民党の長老の言うことを聞く政治家である。きょうのBBCでは調整役型の政治家として紹介されていた。岸田は新しい資本主義というが、個人というものより、集団の協調を重んじる日本型の企業運営を推進することになるだろう。それで、経済が活性化かするか、私は疑問をもつ。

日本の戸籍や住民票は、戦前の家長制を引きずっており、世帯、世帯主というものを社会の基本にしている。個人に立脚する欧米の社会とまったく異なる。選挙のときは、個人宛てに投票用紙が送られるのではなく、世帯主にまとめて送られる。新型コロナ時の給付基金も一人当たりに10万円の支給となっているが、申請は世帯主がまとめて行う形になっている。税金も世帯主がまとめて支払う。個人ではなく、家族が統治の単位になっている。

夫婦別姓とは、同じ名字を名のるかどうかではなく、個人に立脚する生き方を社会の基本にするかどうかにある。

これらに違和感をもたない集団主義の人がいてもよいと思うが、そこに納まることのできない人を、集団主義の人々が抑圧しないか、どうかが気になる。近代の、あるいは、欧米で生まれた自由主義は、あくまで個人の自由である。

総裁選そのものは、政治家の陰謀と、寄らば大樹の陰、勝ち馬に乗る流れで決まった。

総裁選で誰が勝つかは、選挙制度で決まる。アメリカの各党の予備選では、昔から、党員が候補者を投票で決める。日本では、自民党総裁選のルールが毎回変わるが、基本的には、いつも国会議員で総裁が決まる。小泉純一郎が総裁になったときは、先に党員の投票結果が先に発表だったので、その結果が議員投票に影響した。今回は議員投票が終わったあとに、党員投票結果を議員投票結果とともに発表となった。党員の投票が反映されない形になっていた。

また、第一回目の投票で過半数を制する者はいなく、決選投票になって岸田が河野太郎に勝つという話しが、メディアで大々的に事前に流された。また、国会議員の投票は無記名だが、後ろから見ればだれに投票したか、わかるのだという話しもメディアで事前に流された。このなかで、寄らば大樹の陰、勝ち馬に乗る流れが生じるのも無理がない。投票の前日に、私が心配した通りになった。国会議員票は勝ち馬になだれをうって岸田に流れた。

私は自民党員でないから、総裁選の結果はどうでも良いのだが、個人より集団を好む日本人が思ったより多いかもしれない、という政治の現実にどうしても残念な気持ちになってしまう。


選挙はお祭りでいいのではないか、多くの人が政治に参加するためには

2021-09-28 22:21:07 | 政治時評

先日、ふだん会わない友だちが訪ねてきた。総選挙の訪れである。自民党の総裁選でなく、衆議院の選挙である。「10月26日告示、11月7日投開票」あるいは「11月2日告示、11月14日投開票」と見られている。

1週間前の土曜日の朝日新聞の『サザエさんをさがして』のテーマは「選挙カー」であった。

《日本の選挙に欠かせないのが、町の静寂を突き破るかのように大音量で候補者名を連呼しながら駆ける選挙カーであろう。》

私の子ども時代の記憶でもそうである。ところが、私の住んでいる団地では、この10年、選挙カーの連呼を聞いたことがない。この8月の横浜市市長選でも、いつ選挙があったかわからないほど、静かであった。IR招致が争点だったのにもかかわらず、投票率は49.05%であった。

「選挙カー」の記事のつぎの記述にびっくりした。

《公選法では選挙カーに乗って走っている間「選挙運動をすることができない」と規定する。ならば選挙カーは選挙に使えないかというとそうではない。「ただし」として「連呼行為」が認められているからだ。》

選挙カーによる連呼は良いが、選挙運動はいけないという公選法とはなんだろうかと思う。

記事は続く。

《25歳以上のすべての男子に選挙権を広げた1925年に社会主義政党など、当時で言う無産政党の進出を恐れた政府が、候補者が活動しにくいように多くの制限を設けた結果だと言う。》

「選挙運動をまるごと禁止しておいて、その中でやってもいいことを定めている」のが日本の公選法だという。

告示から投票までの期間が2週間もない。この間に選挙運動を限るというのも不思議である。アメリカの大統領選の活動は、予備選も含めると1年近く行なわれている。

また、アメリカで認められている戸別訪問も日本では禁じられている。冒頭の友だちは、とつぜん、懐かしいから会いたいと言って私を外に呼び出す。だから、戸別訪問ではない。

ビラやポスターの枚数も制限されている。したがって、政策として目にするのはキーワードの羅列である。

選挙というものは、お祭りのように、にぎやかでいいのではないか。民主政を支えるのは、ふつうの大衆である。多くの大衆が政治に参加するため、まず、選挙運動に大衆を巻き込まないといけないのではないか。

選挙運動を規制しておいて投票率を上げようというのは無理ではないか。

自民党は有権者の半分しか投票しない選挙で、公明党との連立で、国会の多数派をにぎってきた。そして、選挙で勝ったのだからと、野党とのまともな議論をしない。議論とは対話のはずであるが、形式的に話す時間を割り振っているだけで、一方的である。

大衆の政治への無関心を利用する政治は もう おしまいにしよう。


佐伯啓思の『「国民主権」の危うさ』は専門家集団の独裁を望んでいるだけ

2021-09-26 15:20:46 | 思想

きのう、佐伯啓思が朝日新聞に『「国民主権」の危うさ』という小論を寄せている。私は、「国民」という言葉には違和感があるが、「国民」を「みんな」と読み替えれば、「みんな主権」に問題を感じない。佐伯がそれを「危うさ」と言うのを聞くと、「頑固じじい」を越えて、「クソじじい」になったのでは、と思ってしまう。

紙版には、デジタル版にない見出しがついている。

《 世論に従う民主主義/そのときの空気で右左/共通の将来像が必要》
《 知識人層は民意に同調せず動かせ》

この見出しは、なんとなく、紙面づくりのために、言葉を縮めたように思えるので、編集員がつけたのかもしれない。それでも、佐伯の小論の要旨にそっている。彼が批判しているのは、じつは「世論や民意に従う知識人」のことである。

しかし、「世論」とか「民意」とかいうものがないとしたら、佐伯の言っていることは意味を持たないのではないか。

佐伯は書く:

《 「国民」という実体はどこにも存在しないからだ。それは、実際には多様な利益集団であり、様々な思想やイデオロギーの寄せ集めであり、知識も関心も生活もまったく違った人々の集合体に過ぎない。》

そうなら、世論や民意はあるはずがない。したがって、「世論や民意に従う」は、自己の正統性を主張するための嘘、「錦の御旗」に過ぎない。だとすれば、「国民主権の危うさ」なんて、変なことを言うより、誰がどんなことを「国民の総意」だといつわっているのか、ハッキリ言った方が良い。

新聞の社説、解説、NHKの時事公論を批判しているのだろうか。あるいは、メディアに意見を寄せる佐伯の同僚なのだろうか。もしかしたら、佐伯は同僚のツイッターのことを言っているのだろうか。

佐伯は書く:

《 現下の日本に目を向ければ、自民党の党首選の真っ最中である。一政党の党首選ではあるものの、ここでも世論が重要な役割を果たしている。候補者の国民的支持率や人気度が間断なくメディアで報じられ、暗黙のうちに世論が影響を及ぼしている。》

代議制民主主義をとっていれば、候補者は、選挙の結果が気になり、多くの投票を得やすい発言をするのは、自然なことである。これ自体は目くじらたてて怒るようなことではない。

佐伯は書く:

《 今日、われわれは1つ1つの政策まで「世論」の法廷に引きずりだし、ほとんど1か月ごとに内閣の妥当性を「世論」の評価にかける。》

「国民」が政権の政策を批判していけないのか。佐伯は頭がおかしくなっているのではないか。インタネットが普及するまえは、私のような普通のものが、自分の意見を言う場所なんてなかった。だから、メディアには、「世論」とか「民意」とかを思いはかり代弁することもあった。それが悪いとは言えない。

佐伯は、福沢諭吉のつぎの言葉を引用する。

《 政府を批判するよりも、衆論の非を改めるほうが大事である。》

そして、佐伯はつぎのように結論する。

《 今日の政治の混迷は、将来へ向けた日本の方向がまったく見えない。》
《 そんな大問題について「民意」がそれなりの答えが出せるはずもない。》
《 将来を見渡せる大きな文明論が必要なのであり、それを行うのは学者、すなわちジャーナリズムも含めた知識人層の課題であろう。》

このクソじじい、私をバカにするのも、ほどほどにしろ。佐伯の望んでいるのは、専門家集団による独裁制にすぎない。

[関連ブログ]


新型コロナの感染拡大のピークアウトはウイルスの自滅か

2021-09-25 12:13:34 | 新型コロナウイルス

9月21日(火)のBS-TBS『報道1930』はとても重要な問題、この夏の新型コロナの感染爆発がどうして、いま、急激に収束しているのか、を、東大先端研の児玉龍彦を招いて、論じていた。

残念なことに、私はそれと気づかず、終わりの20分ほどになって見た。だから、児玉龍彦が何を言いたかったは、ネット上での番組へのコメントを見ても、良く分からなかった。

きのう、24日(金)になって、TBSの番組サイトに8分17秒のまとめの動画が載った。要約であるが、それでも、非常に驚く内容であったので、もっと完全な動画をみたいと願っている。まとめは、不自然に途中でとぎれている。

   ☆     ☆     ☆

動画によると、細胞内で急激に増殖するRNAウィルスには、複製するときのコピーエラーが多い。コピーエラーが積もると、生存に適さなくなり、自滅するようになる。変異とはコピーエラーのことである。これが、ウィルスの自壊の原理だという。これを「エラーカタストロフ」というらしい。

新型コロナは3万余の塩基の配列からなり、RNAウィルスのなかで他より巨大である。巨大であればあるほど変異が起きやすくなる。変異を防ぐためか、コロナの18番目の遺伝子は、そのコピーエラーを修復する仕組みを生み出すようになっていた。コロナウイルスは巨大だが変異が起きにくいと思われていた。

ところが、新型コロナに昨年の春から変異がやたらと起きるようになった。患者数が多くなれば、複製の回数が増えるから、1回あたりの複製エラーの確率が一定でも、変異がふえる。児玉の仮説では、それだけでなく、複製エラーの確率が変わったという。多数のウィルスが排出されることで、粗製乱造になったのだと推量する。

変異株が感染力を増したのは、ウイルスのスパイク蛋白が、細胞の表面にあるACE2受容体により強く結合して、細胞のなかにより侵入しやすくなったというより、新しい変異株の感染者が排出するウイルスがより多くなったからであるという。

そして、変異株が前の変異株を押しのけ、急激な感染拡大を招き、市中を席捲したころ、コピーエラーが積もって、自壊が始まり、感染が急速に収まる。これが、新型コロナの繰り返す感染の波であるという。

   ☆     ☆     ☆

大事なことは、児玉がウイルスは自滅するとの楽観論を述べているのではないことだ。この辺が、番組が作ったまとめの動画で含まれていない。

児玉は、収束といっても、波の前の水準より高い新規感染者数があると指摘する。粗製乱造されエラーが積み重なったウイルスが死滅するだけで、欠陥の少ない丈夫な株が残っているのだ。そこから、また、粗製乱造する株が変異で生じれば、急激な感染拡大が生じる。そして、医療体制に無理な負荷がかかり、死ななくてもよい人が死ぬ。

収束期にこそ徹底的にウイルスを抑え込まなければならない。特にウイルス排出量の多い新しい変異株が広がるのを未然に抑え込まないといけない。そのために、変異株追跡の遺伝子配列解析検査を増やさないといけない。感染者が出たら、すぐ治療する機関を増やさないといけない。

児玉は、免疫不全の人が新型コロナにかかり、長期療養となると、そのひとりの体内で、ウイルスのいろいろな変異がおきるという。免疫不全の人、基礎疾患のある人の、ワクチンによる予防と感染初期の徹底的治療が、変異株の出現を抑えるためにだいじだと言う。カクテル治療のように、多種の変異株に対応する治療が必要だと言う。

最後に、番組に戻ると、キャスターの松原耕司がすべてを取り仕切る現在の体制では、無理だと思う。報道1930は、事実の的確な把握が命であるので、番組がリサーチャを抱え、問題の深堀をし、それをキャスターに講義した上で、本番に進んだ方がよい。21日(火)では、松原の分子生物学的知識の欠如が目立ち、児玉の話を混乱させるコメントを乱発していた。知識の欠如はだれにでもあることで、自分が何でも知っているとの虚勢を張るより、キャスターは、知らないことを認め、ほかの人にわかりやすく伝える努力をした方がよいと思う。

[お願い]だれか、完全版の21日(火)の録画をネットにあげてください。