猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

地方都市崩壊の要因は 幅広い道路か、東京からの商業施設か、それとも…

2024-04-26 11:58:35 | 社会時評

2日前、人口戦略会議が、2050年までに自治体の4割で、20から39歳の女性が50%以上減少する可能性がある、との推定結果を公表した。会議がこれを「消滅可能性自治体」と名付けたのは、多少大げさの感があると私は思う。これは、あくまで、日本の少子化と大都市への人口移動の傾向を推定したものであある。

同じ2日前、私は、田舎の高校同期会に出席するために、8年ぶりに石川県の金沢に行った。

町を歩き回って思うのは、やたらと広い道路が多数できていて、大量の車が行きかっていることである。けっして、産業用自動車や観光バスではない。なぜ自家用車などが町の中心を走るのか、よくわからない。

幅広い道路を作ると、両側の商店街は滅びる。道路をへだてた住民の接触は減ってしまう。町の中心には駐車場が少ないから、車は通過するだけになる。

また、金沢駅のまわりに、地元のお土産屋ではなく、東京のアパレルや雑貨店や軽食店などの商業施設がずっと広がっていた。

金沢の住民が、町をテーマパークのように変えるのは、住民の勝手である。しかし、東京からの観光客が、東京で買えるものを、わざわざ、金沢に来て買いたいと思うはずがない。いままで地元の店に入っていた地元の客が、東京からの進出の店に吸い込まれる。近辺の市町村の商店街の客も、東京からの進出の店に吸い込まれる。

幅広い道路と同じく、東京から進出した商業施設が、町を崩壊させる。

ヨーロッパの町では、町のなかへの車の侵入を制限する。道路は歩く人のためのものである。歩くのが大変な人は公共交通機関を使う。何車線もあるような道路を町の真ん中に作らない。広い道路を作るのが地方行政の仕事だと考えるのやめるべきである。防災対策のため、消防車が走れる道路も必要だが、町の崩壊を防ぐため、限度を超えた幅広さはいらない。

日本も都市の中心への車の乗り入れを制限し、現在の幅広い道路を広場に変えるべきである。フリーマーケットにして地元の人が手作りのものを売るのも良いだろうし、そばのレストランやカフェーがテラス席(屋外席)を設けるのも良いだろう。季節の花を植えるのも良いだろう。

江戸も昔のロンドンも都市に女性が集中することはなかった。逆に、仕事を求めて、男性が過度に集中して、独身男性があふれた。いま、なぜ、大都市に女性が集中するのかが、わからない。地方は女性蔑視が多いのだろうか。そうなら、そうでないことを地方自治体は示せばよい。インタネットが普及した現在、地方にも女性の魅力的な仕事を創れると思う。


核のゴミ最終処分場の文献調査を請願する玄海町の怪

2024-04-23 18:49:20 | 原発を考える

けさの朝日新聞に『核ごみ文献調査 賛同の佐賀・玄海町議は』という記事がのった。玄海町の町防災対策協議会が、みずからの町を核廃棄物の最終処分場に、と町議会に請願したという。

最終処分場推進派は「原発立地自治体として、責任は果たさないといけない。全然、関係ないところに処分場をつくるわけにはいかん」「玄海原発の立地の安全を再確認するためにも、文献調査で地質を把握することが必要」と言う。

いっぽう、玄海町は地下に石炭があり、国の公表した「科学的特性マップ」ではほぼ全域が最終処分場に好ましくないと分類されている。核廃棄物は発熱するから、地下に石炭がある場所は好ましくないのだ。

ところが「今、町内で表だって原発反対の活動に参加できるのは2、3人だけ」という。「町防災対策協議会」とは町旅館組合、町飲食業組合、町内の建設業者11社のつくる任意団体である。

この記事を読んで、玄海町はすでに崩壊しているのではないか、と私は思った。町には農業をやるものがいないのか。町には商店がないのか。町には子どもがいないのだろうか。原発臨時労働者を当てにした旅館業、飲食業、原発マネーによる公共建設や原発の核燃料の入れ替え時の清掃に依存した土建業が、町で幅を利かしているのだろう。ヤクザが町を支配しているのかもしれない。

原発立地自治体が核廃棄物を引き受けるということ自体は、ありうる論理だと思う。しかし、原発を稼働するかぎり、核廃棄物は増え続ける。したがって、最終処分場は、これでごみはおしまいとして封印することができない。常に、核のごみが持ち込まれる。そのために、処分場はどんどんと広げる構造になり、脆弱性(ぜいじゃく)なものにならざるをえない。

「町防災対策協議会」はそんなことに無頓着なのだろうか。文献調査申請で20億円をもらっても、国が玄海町に最終処分場を作るはずがないとたかを括っているのだろうか。

資源エネルギー庁は、玄海町議の退廃に厳しく対処すべきである。

国としては、ドイツのように原発の稼働を止めて、強靭な最終処分場を建設すべきである。


超円安「新興国化」する日本、朝日新聞多事奏論

2024-04-21 21:46:51 | 経済と政治

きのうの朝日新聞《多事奏論》で、編集委員の原真人は「(超円安は)物価高に拍車をかける『悪いニュース』だ」と書いている。

良いニュースか悪いニュースかは、その人の立場によって異なる。私のような年金生活者にとっては物価高は悪いニュースである。退職金を年金にまわしたが、その年金は月額固定方式だから、実質的収入は60%ぐらいになった。

日本の財務官僚は、超円安は願ってもないインフレの契機だから、ホクホクだと思う。国債の返還が楽になる。あとは、日本企業を潰さないことに神経を集中すればよいと考えているのだろう。

税制を変えずに、物価高になって賃金が上がれば、税収が増える。じっさい、昨年度はインフレのおかげで予測より税収が増えた。ただ、岸田政権は税収増を借金を返すのではなく、税収増を選挙対策のバラマキに使おうとしている。それだけでなく、大企業向けの減税を行っている。

いまは明白な汚職は政権レベルでは行わなわれなくなったが、財政支出や企業向け減税と引き換えに、自民党は企業に寄付金を求めている。これが政治資金パーティ券問題の本質である。

原真人は、日本の為替相場が投資ファンドの投機対象になっていると、指摘している。経済が弱体化したとき、投資ファンドに簡単に左右されやすくなる。物やサービスの輸出入の収支は赤字が続いている。しかも、米国の政権は、円安に協調介入するには、弱すぎる。米国の大統領選挙が終わるまでは、この混乱がつづくだろう。

株もファンドの投機対象になっており、乱高下している。経産官僚や財務官僚は、健全な企業の育成をどう考えているのだろうか。

先日、朝日新聞は、政権が大企業に大幅な減税を行っているが、どの企業がどれだけ減税の恩恵を受けているかを公表していないと1面で報じていた。自民党のでたらめによって、国策を誤らないために、経産官僚や財務官僚は、事実は事実としてデータを公開すべきではないか。

自民党とともに心中することがないよう、政治にもっと関心を持ち、政治に参加すべきだと考える。


賃上げ今後も続く? デフレ脱却? 景気の好循環?

2024-04-18 23:18:20 | 経済と政治

(John Maynard Keynes)

経済は、人間の欲望と関係するから、本当のことを言わない議論が多くて、わかりにくいったら、ありゃしない。たとえば、岸田政権や日銀が言う「景気の好循環」がそれである。

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きょう、古新聞を整理していて、3週間前の朝日新聞の『《耕論》賃上げ 今後も続く?』の小峰隆夫の議論に違和感を感じた。

「労働組合が賃上げ求め、経済界も社会的責務だと言い、政府も旗を振っていて国民運動のようになっています」「全員が同じことを言っているときは何かおかしいと考えるべきです」

確かにここまでは一理ある。しかし、小峰はつぎのように言う。

「政府と日本銀行がやろうとしているのは物価が下がり続けるデフレからの脱却です」

デフレとは何かの説明を政府や日銀から聞いたことがない。また、なぜデフレから脱却すべきかを聞いたことがない。

デフレは単に物価下がることではない。一般の人が物やサービスを買うだけの充分なお金を持っていないことである。そのため、売り手は、買い手が買える値段にするため、質の悪いか量の減らしたものを売るのである。したがって、一般の人が貧困化しているということである。これを不景気と言う。

だから、多くの人が貧困化するのを止めることが、政府に求められる。とは言っても、「デフレ脱却」は「物価を上げる」ことではない。それなのに、安倍政権は「インフレ率2%」を目標として「異次元の金融緩和」を行った。

貧困化対策であるべきものが、なぜ、コントロールされたインフレ政策になるのか。これは、自民党政権と財務官僚が過去積み上げてきた政府の借金を、減らすためにインフレ政策をとろうとしているからである。

政府の借金を減らすなら、少なくとも新たな借金をしないことである。巨額の国債を毎年新たに発行しないことである。バラマキをしないことである。

ジョン・メイナード・ケインズは不景気からの脱出に財政出動を提案したが、自民党政権の行なう財政出動は、選挙で自民党に投票する層に儲けさすための財政出動である。特定の層にお金が行くから、いつまでたっても財政出動が、多くの人の貧困化を止められない。

また「異次元の金融緩和」が貧困化を止めることができるという保証もない。企業経営者を甘やかしているだけである。じっさい、アベノミクスは、政府の借金を増やしつづけたが、デフレを止められず、日本社会に、人々の経済格差を広げた。

小峰は「大規模な金融緩和を続けてもさほど上がらなかった物価上昇率は、ウクライナ危機による石油価格の値上がりを受けて、あっという間に2%を超えました」と言う。

本当に「ウクライナ危機」が物価上昇の主要因だろうか。「円安」が主要因ではないか。

円安は国際的な投資グループによる投機の結果である。日本が投機の対象になったのは、日本と欧米との金利差と、実際に日本の企業が物やサービスの輸出において国際的競争力を失い、国際収支で赤字を続けているからである。

日本の企業はどうして国際的競争力を失ったのか。自民党政権は日本の企業経営者を甘やかしたため、パーティ券の購入など、自民党を支えることに目がいって、企業が競争力をもつことへの努力を怠ったからである。国外にサプライチェインを求め、国内に雇用を求めなかったからでもある。現場でのものづくりをしないと、技術革新なんて生まれない。

小峰はつぎのように言う。

「賃金と物価が上がれば実質賃は上がらず、国民生活が良くなるわけではありません」「賃金を上げたからといって好循環が実現するとは限りません」

ここは同意できる。しかし、つぎの主張には注意がいる。

「労使が協調して賃金だけ上がっても、生産性が上がらなければ経済は成長しません」

この「生産性」とは何かが問題となる。技術革新で生産性が上がるのは、時代の産物である。だから、どこでも生産性が上がり、結局、賃上げにつながらない。賃上げは、企業の分配の問題である。企業の収益は、株主のものか、経営者のものか、管理層のものか、労働者のものか、という分配の問題である。「労使が協調して賃金が上がる」というほどの簡単な問題ではない。賃金をコストとして計算する現在のミクロ経済学にそもそも誤りがある。

小峰の「賃上げは物価上昇率と企業収益、労働需給の3点決まる」もおかしな論理である。

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安河内賢弘のほうが、本当のことを言っていると思う。

「(労組は)雇用維持などのために賃下げや非正規労働者の拡大を受け容れ、最終的にはリストラも認めたこともあった。果たして雇用が守れたのかという点は、反省する必要があります」「(労組が)緊張感ある労使関係をつくり、自負と責任をもって運動を強化することが大切です」

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経済は人間の活動であるから、人間の欲望の衝突を排除できない。本当のことをいって、議論しなければ、解決策を見つけられない。

岸田文雄の言う、物価上昇と賃金上げとその価格転嫁という「好循環」は、急激な「物価上昇」による国民の自民党離れを恐れての、新たなウソにすぎない。岸田政権も、政府の借金を減らすために、あくまで、インフレを望んでいる。2%が公平なインフレ率であるかの本音ベースの議論が必要である。国際的投機から、どのようにして日本経済を守るのかの真面目な議論が必要である。

ナチスが台頭するまでの20世紀のドイツの歴史を追うと、結局、SPD(ドイツ社会民主党)の労使協調路線が国民の潜在的不満をため込み、世界的不況を契機に、1930年からの急激なナチスの台頭を招いたとも解釈できる。1928年の選挙では、ナチ党は、全投票数のうち、わずか2.6%しか得ることができなかった。それが1932年に37.3%を得て、ナチ党は議会の第1政党になった。


自分を表現し人に見てもらい集まっておしゃべりするのは、文化的

2024-04-16 17:10:04 | 働くこと、生きるということ

私は、NPOで子どもたちの指導を始めて13年目、文芸誌と称して子どもたちの作品を集めて発行し始めて7年目になる。これまでに30号をだした。

私は子どものときのから、文化的なことに 憧れがあり、そういう活動が好きだった。作品を書いて、あるいは、描いて、あるいは、創って、人に見てもらいたい、という気持ちがあった。演劇にも、憧れがあった。

NPOで一人黙々とイラストを描いている女の子の、本当はイラストを見せ合っておしゃべりしたいという気持ちがよく分かった。が、何もしなかった。

7年前の春、てんかんの持病をもつ中2の男の子がインタネット上の『小説家になろう』のサイトに投稿しているのに気づいた。そのとき、突然、NPOに集まってくる子供を集めて、文芸誌を発行したいと思った。強引に私の担当している子どもたち8人の作品を集めて、文芸誌1号を出した。

そのときから私は文芸誌をデジタルで発行してきた。「非売品」と表紙につけて、NPO内だけの回覧である。デジタルだから、イラストや工作や立体造形も簡単に載せることができる。私が、大学でガリ版印刷で同人誌を出していたときと比べると、なんと便利な時代になったものだ。

いつのまにか、NPOのほかのスタッフも作品を集めてくれるようになった。NPOは現在5つの教室からなるが、各教室から作品が電子メールで送られてくるようになった。編集を手伝ってくれるスタッフも4人いるようになった。

私が勝手に出し始めた文芸誌が、NPO公認の文芸誌になった。

私は、文化的活動が、自己表現であり、自己肯定であり、生きていく心のかて(糧)となる、と信じている。それは学校のテストの成績や学歴と何の関係もない。送ってきた作品はすべて文芸誌に載せることにしている。作品の質は問わない。だから、だんだん、文芸誌が重くなっている。

おととしの夏から、文芸誌に載った子どもたちの作品について、スタッフが集まって感想をかわす会を催すことにした。18世紀後半のドイツでは、文学や音楽についておしゃべりするサロンが流行したという。作品を創るのも文化的活動だが、作品について話し合うのも文化的活動である。

感想会のほうは参加者の人数がなかなか増えない。ようやく、今回9人になった。まあ、これくらいが良いのかもしれない。Zoomミーティングを使い、オンラインで行っている。載った作品すべてについて話しあうと、1時間半を超えてしまう。いつも、感想会で編集の時に気づかない発見がある。とっても楽しいひとときである。