猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

津久井やまゆり園殺傷事件の裁判員裁判への注文

2019-10-26 22:37:52 | 津久井やまゆり園殺傷事件

2016年7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、当時26歳の元職員が、入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた。翌年の2月に起訴されたが、裁判員裁判のための公判前整理手続で論点整理がつかず、3年近くたっても、公判が始まらなかった。

ようやく、横浜地裁は、来年の1月8日に初公判、25回の審理を経て、3月16日に判決を言い渡す、と この10月2日に発表した。

この短い期間の裁判で津久井やまゆり殺傷事件が裁けるのか、私は疑問に思う。裁判長と検察と弁護側が3年近くかけて論点整理をし、一気に裁判員裁判を行うのでは、民間から選ばれた裁判員は他なる置物になる、すなわち、裁判員制度が儀式になる、と危惧する。裁判の公正性は、公開の場で議論されることからくるもので、非公開の場での議論はあくまで密室のはかりごとである。
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どうも、裁判で争う論点が、被告が「心神喪失」か「心神耗弱」かに整理されたようであるが、これはおかしい。

被告は、遺族に悲しみを与えたこと、安楽死を選らばなかったことを反省しているが、生きていても役にたない人間は殺すことが正義だと、いまなお、主張している。

であるならば、裁かれるべき第1の論点は、「重度障害者を生かしていくと社会はやっていけない」とか「重度障害者は生きていても幸せなことはない」という被告の信念である。

第2の論点は、どうして、元職員がそういう信念にいたったかである。それは情緒酌量になるのか、ならないのかである。

第3の論点は、元職員が殺傷事件を行うのを、津久井やまゆり園側で、防ぐ手立てを尽くしていたかである。

短期間の裁判となると、裁判員裁判を行っても、裁判長と検事と弁護士がしめし合わせた地点に着陸する危険がある。これを防ぐためには、裁判の前に、メディアが本当の論点を示す必要がある。
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知的障害児にかかわっている者からすると、津久井やまゆり園で重度障害者への虐待が日常化していたのではないか、という疑いがある。少なくても、これまでの証言から、夜間は、重度障害者を外からカギをかけて部屋に閉じ込めている。精神科病棟で法が保証する、利用者(患者)が外部へ連絡する自由も、施設が与えていなかったように見える。当日、被害者は、どこにも連絡できていない。

また、横浜市のNPOぷかぷかは、施設が障害者に身体拘束をほどこしていたのではないか、という質問状を神奈川県に送っている。この質問状に対して、県は正面から答えていない。私のNPOでは知的障害児の子育てを助けているが、NPOぷかぷかは大人になった障害者に働く場所を提供している。働くことは障害者に誇りを与える。

弁護側が被告を勝手に頭がおかしいとせず、被告の信念を述べさせ、その信念はどこから生まれたか、学校教育に責任があるのか、それとも、津久井やまゆり園に責任があるかを、証人証言を利用して明るみださないといけない。

検事側は、被告の信念を否定する論理を述べるべきである。刑罰の重さで殺傷事件が防げるという安易な考えに陥らず、なぜ重度障害者を殺していけないとするか、社会に向かって発信しなければならない。

裁判長は、裁判をとおして、このような事件の起きる日本社会を告発しなければならない。