猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

佐伯啓思の『(異論のススメ)民主主義がはらむ問題』に反論する

2022-12-24 22:29:56 | 思想

きょうの朝日新聞の『(異論のススメ)民主主義がはらむ問題』で、佐伯啓思は民主主義は非効率で、滅びの道に進むと相変わらず主張している。「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍晋三も同じ主張である。元首相の吉田茂もそう主張していたとジョン・ダワーが『敗北を抱きしめて』で書いている。

佐伯は書く、

「だが、利害が多様化して入り組み、にもかかわらず人々は政治指導者にわかりやすい即断即決を求めるという今日の矛盾した状況にあっては、由緒正しい民主主義では機能しない」

「民主主義を民意の実現などと定義すれば、民主政治とは、民意を獲得するための政治、つまりポピュリズムへと傾斜するほかなかろう。」

「古代ローマ帝国の崩壊は、民衆が過剰なまでに「パンとサーカス」を要求し、政治があまりに安直にこの「民意」に答えたからだ」。

この佐伯の民主主義への批判は、大衆に対する恐れ、敵意からくると私は思う。

佐伯の「古代ローマの崩壊は・・・・・・「民意」に答えたからだ」は間違っている。「古代ローマの崩壊」の前に、すでに、古代ローマの民主主義が崩壊している。民主主義の崩壊は市民社会の崩壊によるものである。

古代の市民社会は、自分の土地を自分の手で耕すことでなりたっていた。それが、戦争で大量の奴隷が安価に手に入り、奴隷を購入する大土地所有者が有利になった。すなわち、小規模の自作農がなりたたくなる。古代ローマで起きたことがこれである。何度か反乱が起き、農地解放が行われたが、私有制が維持されたので、自作農の没落の趨勢は止められなかった。

「プロレタリアート」とは、もともと、生産手段を失ったローマ市民のことをさす。彼らの反乱を防ぐために、統治者は「パンとサーカス」で民衆を抑え込んだのである。

古代ローマの市民社会が崩壊し、雇用兵で帝国を守るようになれば、ローマ帝国が滅んでいくのも自然な流れである。それが公平というものである。

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佐伯は書く、

「自由や民主主義と経済成長を謳歌するはずであった冷戦以降のグローバリズムにおいて、経済の混迷に直面する民主主義国が深い閉塞感にさいなまれていることは疑いえない」。

私は、このかた、「深い閉塞感にさいなまれた」ことはない。1981年にカナダから日本に戻ったとき、満員電車に乗り込む勇気がなく、貧困な日本文化にあきれただけである。2000年代に大学の先生とつきあったが、彼らの言う「閉塞感」を理解できなかった。1990年のバブルの崩壊の後遺症ではないか。「閉塞感」を感ずるのは、既得権層に属しているからではないか。

私はいま日本が民主主義の国とは思わない。私の子ども時代、「戦後民主主義」が生き残っていたが、1980年代には ほとんど消え失せている。いま、「民主主義の危機」ではなく、「民主主義」とは  これから闘いとるものである。

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佐伯は、「民主主主義」が「真理は不明であり、絶対的に間違いのない判断をなどありえない」を前提としていると言う。これを「価値相対主義」と呼び、多数派を形成するために、「ポピュリズム」に陥るしかないと主張する。

科学においては、「真理」は追い求めるものであり、手元にあるのは「真理」ではなく、「仮説」と考える。「仮説」が役立たなくなれば、仮説を改めれば良いのだ。同様に民主主義においても「真理」や「正義」は仮説であり、「価値相対主義」とは異なる。

民主主義社会では、政治家は、個人的な権力闘争に窮するのではなく、何をなすべきかを社会のメンバーに提起し、社会の合意を形成していくべきだ。

安倍晋三や岸田文雄は権力を握ることだけに執着し、強い自分を演出しようとする。

「民意」を尊重することが悪いのではなく、自分に都合の良い主張をあたかも「民意」のように見せかけたり、人々を不安に落とすことで「民意」をつくり出したりすることが悪いのである。

電力不足で国民を脅して原発政策の転換をはかったり、たいしたことのない北朝鮮のミサイルにJアラートで国民を脅して防衛政策の転換をはかったりすることこそが、悪いのである。


ギフテッド・チャイルド続報 IQ134の小さな男の子

2022-12-23 13:28:17 | 愛すべき子どもたち

以前に紹介したIQ134の小学3年生の男の子の続報である。

放デイサービスでその子を担当して半年になった。いろいろなことがわかってきた。それなのに、来年度は「四谷大塚」に専念させると親からの連絡帳にあり、ちょっと残念に感じる。 

私は、新型コロナの騒ぎが続いているときに担当したので、その子のマスクの下の顔をずっと知らなかった。最近、鼻かぜをひいたのか、その子はマスクをはずして鼻水をかんだ。目が小さいから繊細な顔と思っていたのだが、意外にも、たらこ唇の意思の強そうな顔であった。

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嫌いな教科は「道徳」だと、その子は言う。自分は人の気持ちがわからないから、「道徳」の時間が嫌だと言う。私も同僚も、その子が、子どもなのに、大人の気持ちを気遣うのにびっくりしていた。私たちが「気遣う」と言うのは、大人の要求を推察するということではなく、大人の心を傷つけないよう配慮することである。気遣うことを良いとは私は思わない。精神医学哲学者のレイチェル・クーパーは人の心をシミュ―レーションできないし、するなと言っている。

学校の「道徳」の時間は子どもたちに「共感」を強要しているのではないか。「共感」を強要しても「共感」の心は育たない。

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その子は漢字を覚えるのが苦痛である。覚えることが嫌いである。その子の才能は「考える」ことにある。「考える」とは、しつこく試行錯誤を繰り返す能力にある。「学ぶ」とは「まねる」ことである。日本の学校教育は「覚える」「まねる」ことを強調し過ぎではないか。

その子の社会科の課題で、都道府県名とその場所を覚えることがあった。都道府県名と場所だけでなく、そのイメージをその子とおしゃべりした。テレビで見たことや地図上の位置から推察して、その子はイメージを楽しく語ってくれた。最後に、都道府県の白地図を指さして都道府県名を問うと、半分以上は覚えられていなかった。そのとき、突然、作業療法士から記憶力が劣っていると言われたと、その子は私に言った。なぜ、作業療法士はその子にそんなことを言ったのか、と私は思った。作業療法士に限らず、世の中は、発達障害児童に対する偏見をもっていて、不要な言葉を発する。人にラベルをつけてはならない。

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今年の夏に、その子は、素晴らしい読書感想文とゲームソフトを仕上げた。母親が助けたのは知っているが、それでも、その子の構想力と仕上げるまでの持続力がすごい。

ゲームソフトは「全国小中学生作品」に母親が応募して賞をもらった。問題は、学校代表になった読書感想文である。

その子の感想文は400字詰め原稿用紙4枚の長さだったが、コンクールに合わせて、担当教師が3枚の長さに縮め、それを清書するように指示した。その子は自分の言いたいことは3枚に縮められないと腹を立てたのである。削られた部分は調査捕鯨とそれに反対する団体に関して言及したところであったのでる。

その本はクジラについての科学的知識を増すことは良いことだという前提に立っている。したがって、調査捕鯨に反対するシーシェパードを悪者として扱う。

しかし、その子はつぎのように書く。

「ぼくは、シーシェパードの考えは、理かいはできる。でも、やり方を間ちがえてしまっているのがざんねんだと思う。」

「それでもぼくの心の中には、クジラをころしてしまうのはかわいそうだという気持ちがあって、ちょうさほげいにすべてさん成することはできなかった。」

その子は、「科学的知識」を得るためにクジラを「殺す」ことの問題を感じとっている。

だから、その子は読書感想文の冒頭につぎのように書いているのだ。

「ぼくは、どんな大人になるのだろう。ぼくらの未来は、どうかわっていくのだろう。きぼうとふ安とまよいがまじったような、よく分からない気持ちのまま、ぼくはこの本を読み終えた。」

担当教師はコンクールに応募することだけを考えていて、その子の早熟な感受性になにも感じ取っていない。

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今、子どもたちは無理解な大人に囲まれて生活しているように感じる。社会は形式だけが先行している。親は子どもを無理解な大人たちから守らないといけない。


統一教会のように 政府は戦争の不安を煽って 安保政策の大転換をはかっている

2022-12-18 23:10:17 | 戦争を考える

今日の朝日新聞1面のトップ見出しが『攻撃ドローン「日本製部品」』であった。私は、なぜこれがトップ記事なのかをいぶかしく思う。

攻撃ドローンは日用品を組み合わせて安く作ることのできるゲリラ用の武器である。小泉悠が『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書)に書いていたように、弱点だらけで、製造コストの安さを無視すれば、近代兵器に大きく劣る。移動スピードは遅い。電波で操縦する必要がある。載せる爆弾は軽くないといけない。

あくまで、貧しい国や非正規軍が金持ち国の正規軍に対抗するための兵器である。アメリカ軍は これより はるかに高性能の無人兵器をもっている。アメリカ軍の無人兵器のほうが速くて電波妨害に耐え爆撃能力に優れている。

とすると、この記事は、日本の軍事産業の輸出を許すための地ならしか、日本の非軍事民間産業への輸出規制強化をもたらす前ぶれとしかならない。確かに、最近、日本の軍事産業は輸出規制によって経営が困難になっているという記事が新聞紙上をにぎわしている。

ジャーナリストの良心が問われる。

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今年の12月12日に自民、公明の両党は、政府の3文書「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略計画」「防衛力整備計画」に合意した。ついで12月16日に閣議決定され、現在、防衛省のサイトにそのpdfファイルが公開されている。

この3文書の改定は、今年の1月から政府が一部の官僚と非公開の有識者会合で作成してきたものだ。順に約2万9千文字、約3万2千文字、約3万2千文字にのぼる。私のような一般人には、即座に読み切れない量である。

メディアが 日本の安全保障政策の大転換であるというが、ジャーナリストは 国民に分かりやすく、かつ、見落としのない批判を展開しないといけない。

与党協議も、10月中旬からの毎週1〜2回のペースの計15回の実務者協議、両党幹部の親会議2回だけである。公明党は、統一教会問題で自民党の脅しをうけ、安易に合意したのではと私は疑う。

政府が1年間かけて作った安保政策なら、少なくても、1年かけて国会が審理せねばならない。

「国家安全保障戦略」は、策定の趣旨として、「自由で開かれた安定的な国際秩序は、冷戦終焉以降に世界で拡大したが、パワーバランスの歴史的変化と地政学的競争の激化に伴い、今、重大な挑戦に哂されている」と書いている。この「自由で開かれた安定的な国際秩序」とは何を意味するのか、はじめから言葉遊びである。これはソビエト連邦の崩壊で、アメリカ政府による世界支配の実現を指しているだけではないか。「自由」とはアメリカ政府による「かってきままな」世界支配のことではないか。「開かれた」も意味不明である。誰に開かれているのか。

「パワーバランスの歴史的変化」とは、GDP世界第2となる中国の経済力の発展のことではないか。中国だけでなく、韓国、台湾、インドネシアの経済発展も歓迎すべきことではないか。一国の政府による国際秩序(世界支配)が崩れたことは望ましいことではないか。

また、「地政学的競争」とは何を言っているのか。「地政学」とは日本が日米戦争で敗戦する前、他国を自国の利益に供するために論じる学問のことではないか。そんなこと、昔からあることで、「地政学的競争」を「協調」に変えることこそ、日本の安全保障の戦略ではないか。

政府自民党のやり口は、統一教会と同じく、人の不安を争って、軍事力増強の経済的負担(献金)を求めている。

私は、日本がキリがない軍拡競争に参加するより、排外的でない 経済の持続的発展に尽力し、幸せな社会を実現するのが、政府がなすべきことである、と考える。

円が基軸通貨にもならない日本が、アメリカに代わって世界の軍事的盟主になりえない。日本が中途半端な軍事力をもっても、かえってアメリカの軍事作戦の前衛となり、苦しくて損な思いをするだけである。「防衛」という言葉に騙されてはいけない。


日本は借金してまで軍事力を強化する必要があるのか

2022-12-13 22:16:11 | 戦争を考える

いま、世の中は、首相の岸田文雄が、日本の軍事力強化の費用を借金で賄うのではなく、税で賄わないといけないと述べたことで、もめている。少なくとも、高市早苗がそんなことを閣議で聞いていないとわめいている。

孤立無援の岸田を応援するためか、きょう、誰かがテレビで、日本の歴代の首相は公債で軍事費を賄うことに反対していたと言った。ただ、残念なことに、なぜ、歴代の首相は軍事費を公債で賄うのに反対したのか、の説明がなかった。

私が思うに、借金してまで軍備を強化する必要があるのか、ということを戦後の歴代首相が真剣に考えていたのだと思う。

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アメリカとの戦争で敗戦する前、日本政府は、日清戦争,日露戦争、第1次世界大戦の戦費を得るために、戦時公債を発行した。日本では、むかしから、戦争とは相手を倒して土地や財産を奪うことだと、サムライや軍人や一部の国民が考えていた。借金しても、戦争で勝てば儲かると考えていた。

1905年9月5日に、「日露戦争で多くの犠牲者や膨大な戦費を支出したにも拘わらず、賠償金が得られなかった」と、暴徒が内務大臣官邸、国民新聞社、交番などを焼き討ちした(日比谷焼打事件)。悲しいことに、当時、そんなバカな日本人がいたのである。

アメリカがロシアとの講和をはかってくれなければ、弾薬が尽きていた日本軍は大敗したかもしれない。日本が、必ずしも勝っていなかったにもかかわらず、アジアの小国が大国ロシアと五分に戦っている、と国際世論の同情を得たからである。

この後日談がある。日露戦争のときに、戦費を得るため、海外で公債を苦労して売っていた人が、二・二六事件で陸軍青年将校らに殺された高橋是清である。彼は、戦争が儲からないということを身をもって体験した。そればかりか、借金を返すため、日露戦争の後、日本は不況に見舞われた。彼は蔵相になって日本経済の立て直しに奔走する。

高橋は、世界恐慌がまだ続く1934年に、6度目の蔵相に就任し、陸海軍からの各4000万円の増額要求につぎのように反論した。

「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ。」

これに軍部は不満をもち、1936年2月26日に、反乱軍の青年将校らが高橋の胸に6発撃ちこみ、殺した。それが二・二六事件である。

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今年、12月4日の読売新聞の世論調査によると、日本国民の半分がGDPの2%の軍事力の増強に賛成である。

日本国民の半分は、その増強した軍事力で何をしたいのか。そして何ができるのか。そして、そのことによる経済的負担を真剣に考えたことがあるのか。

すでに、GDPの3倍の借金している日本が、軍事費の負担を借金してまで増やす必要はない。

日本国民の半分は、今度のウクライナ戦争で何を学んだのか。抑止力は何か効果があったのか。どれだけの抑止力があれば、戦争が起きないのか。

第2次世界大戦後、アメリカ、中国、ロシアは核を持ったが、戦争が絶えず起きており、多く人が死んできた。アメリカ人も多数死んでいる。第3次世界大戦が起きなかったというだけである。

日本国民の半分に問う。中国の軍事基地を攻撃するのは何のためか。何か、中国が日本に攻めてくる根拠があるのか。

撃ってくるミサイルを打ち落とせないから、中国の軍事基地を未然に叩く必要があるという。中国の軍事基地はどれだけあって、どれだけのミサイルが必要となるのか。日本を攻撃するのだったら、中国は潜水艦からミサイルを発射するだけで十分である。弾道ミサイルは遠く離れたアメリカに打ち込むためのものである。

日本は最新鋭の戦闘機を開発するという。中国の戦闘機が日本を襲うという根拠があるのか。日本にアメリカの軍事基地があるから襲われるというなら、アメリカの軍事基地はいらない。

日本はまだまだ貧乏国なのだ。強力な軍事力を持つために、日本がもっと貧乏にならないという論理を私は受け入れられない。


日本の軍事力強化に国民の十分な議論があったと思わない

2022-12-10 22:17:58 | 戦争を考える

きょう、国会の閉会にあたっての記者会見で、岸田文雄は日本の軍事予算を2倍にすることに十分な議論を行ったと述べた。あとは、その財源をどうするか、と、国民に十分に説明することであると言った。

私は軍事予算を増やすことに反対である。日本の軍事力強化に十分な議論があったと思わない。

政治用語で「国民に十分な説明を行う」という意味は、「政府は決定を変えない、国民はそれを受け入れ従うべきである」ということである。民主主義国家にあるべきことではない。

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加藤陽子の『天皇と軍隊の近代史』(勁草書房、2019)に面白い話がのっている。戦争犯罪を裁くという話しである。第4章である。第2次世界大戦後に、勝利した連合国が戦争犯罪人を裁いた話である。ニュルンベルク国際軍事裁判、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)である。

これは、1945年6月26日から8月8日にかけての、アメリカ、イギリス、ソビエト、フランスの代表者のロンドン会議で決定された国際軍事裁判条例にもとづく。その要点はつぎである。

① 侵略戦争を起こすことは犯罪である。

② 戦争指導者は刑事責任を問われる。

加藤はそれを国際法上の「革命」と呼んでいる。

侵略戦争を違法とするのは、第1次世界大戦の反省から、すでに、国際的に受け入れられていた。革命的な点は②である。それまでは、政府の起こした戦争は国民全体が責任を負うのである。負けると国民は領土を奪われ、莫大な賠償金を支払わされるのが、きまりだった。古代では、もっと最悪で、奴隷にされるか、皆殺しにあうのが、きまりだった。

「革命」では、事前に知らされていなかったとかが、無罪の言い訳にはならない。体制が転覆されたのだから、国際法の規定のなかった過去にさかのぼって罰することができる。「悪い」ことは「悪い」となる。

安倍晋三は、この「革命」を拒否した。「戦後レジームの脱却」の1つである。

私はこの「革命」を受け入れる。日本は、第2次世界大戦敗戦で、領土こそ縮小したが、国民は賠償責任をまぬがれ、急速に経済復興した。日本の受け入れた「民主主義」が農業を地主の桎梏から解放し、産業を財閥から解放し、日本の急速な経済復興を可能にした。

けっして、急速な経済復興は国家の「インフレ」政策によるのではない。

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東京裁判の結果、東条英機が絞首刑になったのは当然のことである。

靖国神社が死んだ彼を神として祭り、歴代の首相がその御霊に参拝するというのは異常なことである。

民主主義国家では、宗教の自由のもと、民間の「靖国神社」が戦争犯罪人を祭ることができる。しかし、首相は議員であるとともに公務員である。公務員は、戦争犯罪人の御霊を神として参拝することはしてはならない。

岸田文雄は、安倍晋三が育てた自民党議員に押されて、いま、戦争犯罪人の第一歩を歩みつつある。