猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』が静かなブーム

2024-02-09 11:38:57 | 愛すべき子どもたち

(夜明け)

成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』(青春出版社)がいま売れているらしい。同社が2月2日の朝日新聞広告によると、発行部数は11万突破となっている。去年の3月に出版された本にもかかわらず、先週、私が横浜市の図書館に予約したとき、予約順位が116位だった。

私がこの本の存在を知ったのは、ちょっと前のことで、まだ読んでいない。

NPOで私が8年間担当している男の子(23歳)が「発達障害」について書かれている本を読みたいと言うので、ふたりでインタネットで探したとき、たまたま、目にはいったのがこの本である。

彼は、本のタイトルの「間違われる」が気に入って、私と別れた後、帰り道の本屋で即座に買った。翌週、彼は、その本がとても良かったと私に告げた。読んで悩みがすっきりと解決したと言う。私は、13年間に「発達障害」児が約10倍に増えたのは、発達障害もどきを「発達障害」と間違えたからだというところか、と思ったが、そうではなかった。彼は、著者のメッセージ「治る」がうれしかったのだ。

似たようなタイトルの本に岩波明の『発達障害はなぜ誤診されるのか』(新潮選書)がある。この本は、『「発達障害」と間違えられる子どもたち』と逆に、発達障害なのに ほかの精神疾患(mental disorder)と間違えられると主張している。もっと正確にいうと、精神疾患が、もともとの発達障害から生じた2次障害なので、発達障害を直さないと、治らないという主張である。

岩波明の主張の問題点は、「発達障害」は治るのか、あるいは、抑え込めるのか、ということが曖昧であることだ。また、精神疾患にたいする環境の影響が軽視されていることだ。

「発達障害」というカテゴリがアメリカの診断マニュアルDSMにあらわれたのは、自閉スぺクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(AD/HD)が幼児期の母親の育て方に責任があるのではなく、生まれつきの脳機能の問題だとし、周りからの攻撃に対し、親や教育者の気持ちを軽くする意図もあった。

そして、日本では、NHKなどマスメディは発達障害を生まれつきの特性だとし、社会に適応できないのは、その特性のためだと煽ってきた。しかし、「発達障害」と言われた本人は、生まれつきの特性だと言われて、気持ちが軽くなるわけではない。生まれつきだとすると治らないのではないか、個性でなく特性だとすると社会から拒否されているのではないか、と悩んでいたのである。

23歳の彼は、その悩みは自分だけでなく、メンタル・ヘルス・ケアに集まる若者の共通の悩みであると言う。診断名よりも、「治る」あるいは「社会に受け入れられる」ということが本人にとって大事なのだ。それが、成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』が静かにブームになっている理由のようだ。


ギフテッド・チャイルド続報 IQ134の小さな男の子

2022-12-23 13:28:17 | 愛すべき子どもたち

以前に紹介したIQ134の小学3年生の男の子の続報である。

放デイサービスでその子を担当して半年になった。いろいろなことがわかってきた。それなのに、来年度は「四谷大塚」に専念させると親からの連絡帳にあり、ちょっと残念に感じる。 

私は、新型コロナの騒ぎが続いているときに担当したので、その子のマスクの下の顔をずっと知らなかった。最近、鼻かぜをひいたのか、その子はマスクをはずして鼻水をかんだ。目が小さいから繊細な顔と思っていたのだが、意外にも、たらこ唇の意思の強そうな顔であった。

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嫌いな教科は「道徳」だと、その子は言う。自分は人の気持ちがわからないから、「道徳」の時間が嫌だと言う。私も同僚も、その子が、子どもなのに、大人の気持ちを気遣うのにびっくりしていた。私たちが「気遣う」と言うのは、大人の要求を推察するということではなく、大人の心を傷つけないよう配慮することである。気遣うことを良いとは私は思わない。精神医学哲学者のレイチェル・クーパーは人の心をシミュ―レーションできないし、するなと言っている。

学校の「道徳」の時間は子どもたちに「共感」を強要しているのではないか。「共感」を強要しても「共感」の心は育たない。

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その子は漢字を覚えるのが苦痛である。覚えることが嫌いである。その子の才能は「考える」ことにある。「考える」とは、しつこく試行錯誤を繰り返す能力にある。「学ぶ」とは「まねる」ことである。日本の学校教育は「覚える」「まねる」ことを強調し過ぎではないか。

その子の社会科の課題で、都道府県名とその場所を覚えることがあった。都道府県名と場所だけでなく、そのイメージをその子とおしゃべりした。テレビで見たことや地図上の位置から推察して、その子はイメージを楽しく語ってくれた。最後に、都道府県の白地図を指さして都道府県名を問うと、半分以上は覚えられていなかった。そのとき、突然、作業療法士から記憶力が劣っていると言われたと、その子は私に言った。なぜ、作業療法士はその子にそんなことを言ったのか、と私は思った。作業療法士に限らず、世の中は、発達障害児童に対する偏見をもっていて、不要な言葉を発する。人にラベルをつけてはならない。

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今年の夏に、その子は、素晴らしい読書感想文とゲームソフトを仕上げた。母親が助けたのは知っているが、それでも、その子の構想力と仕上げるまでの持続力がすごい。

ゲームソフトは「全国小中学生作品」に母親が応募して賞をもらった。問題は、学校代表になった読書感想文である。

その子の感想文は400字詰め原稿用紙4枚の長さだったが、コンクールに合わせて、担当教師が3枚の長さに縮め、それを清書するように指示した。その子は自分の言いたいことは3枚に縮められないと腹を立てたのである。削られた部分は調査捕鯨とそれに反対する団体に関して言及したところであったのでる。

その本はクジラについての科学的知識を増すことは良いことだという前提に立っている。したがって、調査捕鯨に反対するシーシェパードを悪者として扱う。

しかし、その子はつぎのように書く。

「ぼくは、シーシェパードの考えは、理かいはできる。でも、やり方を間ちがえてしまっているのがざんねんだと思う。」

「それでもぼくの心の中には、クジラをころしてしまうのはかわいそうだという気持ちがあって、ちょうさほげいにすべてさん成することはできなかった。」

その子は、「科学的知識」を得るためにクジラを「殺す」ことの問題を感じとっている。

だから、その子は読書感想文の冒頭につぎのように書いているのだ。

「ぼくは、どんな大人になるのだろう。ぼくらの未来は、どうかわっていくのだろう。きぼうとふ安とまよいがまじったような、よく分からない気持ちのまま、ぼくはこの本を読み終えた。」

担当教師はコンクールに応募することだけを考えていて、その子の早熟な感受性になにも感じ取っていない。

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今、子どもたちは無理解な大人に囲まれて生活しているように感じる。社会は形式だけが先行している。親は子どもを無理解な大人たちから守らないといけない。


愛されるべき子どもたちの備忘録、怒りと悲しみ

2022-10-28 23:31:43 | 愛すべき子どもたち

渡辺弥生の『感情の正体 発達心理学で気持ちをマネジメントする』(ちくま新書)を読んでいたら、「子どもは、悲しみの表情を怒りの表情ととらえてしまうようなのです」という文に出くわした。これは、感情とは何かを表情から探ろう、という文脈での、一節である。

怒りと悲しみとが結びついているのだ。似たような文を見たことを思い出した。DMS-5(精神障害の診断・統計マニュアル第5版)の一節である。

重篤気分調症につぎのようにある。

「激しい激怒性は2つの特徴的な臨床症状として現れる。1つ目は頻回のかんしゃく発作である。このような発作は典型的には欲求不満に反応して起こり、言語または行動(後者は、器物、自己、または他人への攻撃)の形をとる。」

「慢性的な易怒性を示す子どもは成人期に単極性抑うつ障害および/または不安症群を発症する危険性が高い。」

ここで「かんしゃく」は「癇癪」とも書く。

先日、NPOのほうから、私が以前に担当した女の子(23歳)がグループホームで癇癪発作を起した、すぐ来てください、というメールを受け取った。癇癪発作はSNSでのトラブルが原因で、SNSをやめるようにアドバイスしているとあった。

あくびてんかん発作を持病とする子だったので、急いで出かけ、その子に会った。話を聞くと、SNSの件は心のなかで決着している、Googleアカウントは複数もっている、イラストをネットにあげたいので、アカウントを閉じたくない、と言う。癇癪発作というが、グループホームから弁償を請求されないよう、すなわち、部屋を壊さないよう、一人で暴れているのだと彼女は言う。

SNSの件が決着しているのに、どうして、イライラするのか、よくよく聞いていくと、経済的不安に追い詰められていると言う。その子は、いろいろな人からカウンセリングを受けていたが、支援者のこれまでのメールのどこにも、それがなかった。発達障害という「色メガネ」から、SNSが悪者になっていただけだ。

人が欲求不満になるのは、味方してくれる人がいないのもあるが、自分の困りごとが何であるのかわからなかったり、あるいは、それを伝える言語的能力なかったりすることが多い。癇癪発作が起きたから薬を飲ますというだけでは、解決にならない。

彼女は精神障害の手帳をもっており、公的サービスを受けているから、形の上では支援者は多い。しかし、不安になると働けなくなる。働かなければ、おしゃれもできないし、趣味のものも買えない。障害者年金だけでは十分でない。さらに不安になる。悪循環に陥って、癇癪を起さずにいられなくなる。

背景に、彼女の母親が厳しい人で、子どものときから自立を要求することにある。「働くのが嫌なら、生活レベルを落として、生活保護を受けなさい」「高価な冬用帽子を買うことはない」「自分で組み立てられない椅子を買うなんて」と母親に言われたと話す。

「いろいろ言われると、また、失敗してしまうのでは、と思ってしまう。自分の思っていることが言えない」と彼女は話す。

母親の言うことは正論であるが、彼女は甘えたいのである。子ども時代に甘えたりなかったということが、現在の経済的状況を過剰に不安なものに受け取るのである。

怒りは悲しみに転換する。うつ病を発症するかもしれない。怒りの段階で、経済的不安と働けないの悪循環を止めないといけない。


本当にギフテッドはいるのか、インクルーシブ教育の確立が先ではないか

2022-09-30 23:28:53 | 愛すべき子どもたち

先日、日本の文科省がインクルーシブ教育に真面目に取り組んでいないとの報告書を国連が出したという記事が新聞にのった。インクルーシブ教育とは、障害者を集団教育の場から除外しないということである。この障害には、肉体的障害だけでなく、知的や精神的障害を含む。

私はインクルーシブ教育に賛成であるが、その実施に関しては、教授陣にかなりの能力が要求される。文科省がかなり本気になって教師をサポートしなければ、実施できないだろう。インクルーシブ教育は理念であって、教育技術として実装するにはまだまだ試行錯誤と研究がいるように思える。

いっぽうで、ギフテッドに対する学校における指導・支援には文科省は熱心であるように見える。ここでのギフテッド教育とは、音楽やスポーツほどには才能教育が確立していない分野において、天才教育をしたいということらしい。

私はギフテッドなるものは存在しないと思っている。

ギフテッドといわれるものは、人間がつくった文化のある制限された領域に対し、年齢以上の能力を発揮するものをいっているにすぎない。しかも、音楽やスポーツの天才教育を見ていると、多くの場合、ある程度の潜在的能力を持っていれば、早くから仕込めば、他の人より能力を発揮できる、といった程度の理屈である。それって、人類にとって何の意味があるのだ。歌舞伎役者の子が歌舞伎役者になるのが、何がいいのか。芸を仕込まれるサーカスのライオンや馬と同じではないか。

大学の数学ができる小学生の話を読んだが、そんなもの、普通以上の頭を持っていれば、教えればできるようになる。それが、どうしたというのだ。大学の教えていることは、過去において研究され、基本的知識として体系化されたことにすぎない。天才といわれるには、これまで知られていない真理、真実を発見することである。

私は今年からNPOでギフテッドといわれる小3の子の指導をしている。いろいろなことを知っているし、書かせば、大人並みの論理的構成の文章を書く。大気中の炭酸化ガスの濃度を知っているのにはびっくりした。しかし、教えているうちに、立体図形の問題に弱い、数パズルが解けないことがあるのに、気づいた。どうも、母親が教えることのできる分野が得意らしいことに気づいた。

この子の本当の才能は何なのか。1つはしつこく試行錯誤できることである。ディオファントス方程式タイプの数パズルは、初等的には試行錯誤で解くことになる。ここで試行錯誤を減らす工夫がいる。それに気づいていないようだ。

魔法陣の1つの数をいろいろと変えて、縦横斜めの和が与えられた数にする問題は、この子が解ける。しかし、2つの数を同時変えての試行錯誤が求められる問題を解けない。線型のディオファントス方程式では、独立な方程式の数が未知数の数より少なければ、その差の数の未知数を試行錯誤の対象にする必要がある。ここで、どの未知数を試行錯誤の出発点にするかが、試行錯誤を減らすのに重要である。

小3とすれば、難しい言葉を知っているし、文章構成力がある。しかし、自分の哲学を切り引けるか、自分の政治理論を打ち立てるか、といえばそうではない。ただ、プレゼンテーションや企画書作りの技術を知っているだけである。

そうすると、この子の能力は、成功体験の蓄積から得た成功への「試行錯誤のしつこさ」であると思う。今後は、バカな大人にたよらず、自分で自分の道を切り開かないといけないと悟ることが近い将来必要になるだろう。さもなければ、昔は神童、いまは凡人となる。大人を驚かすだけのギフテッドは、バカな大人に若くして到達できるだけである。


最後のギフテッド・チャイルドはIQ143の小柄な男の子

2022-04-23 23:02:15 | 愛すべき子どもたち

最後に紹介したいギフテッド・チルドレンは、今年の4月に小学3年生になった男の子である。このような小さな子どもに本当に才能があるかどうかわかる筈がないと私自身は思っている。偶然の体験に左右されながら、才能はこれからしだいに育っていく。

私が気づいたのは頭の回転がほかの同年齢の子どもより早いのである。これは、神経細胞間の興奮伝達がスピードが速いのであろうか、そんな単純な話しではなさそうだ。その脳の仕組みを私は知らない。親によれば、WISC検査で IQ143である。IQ100が平均で、IQの幅15が標準偏差である。標準偏差の3倍も賢いということである。私自身はIQは目安であって大騒ぎしても意味がないと思う。

たぶん、天才科学者といわれるアインシュタインに、8歳のときにIQテストを行ってもIQ80ぐらいだろうと私は推定する。子どもときのアインシュタインは、家のお手伝いさんに軽い知的障害児と思われていた。のろまで、おしゃべりができなかった。算術も得意ではなかった。アインシュタインは、中学に進み、代数学に目覚めた。

親は、その子を「2E」、すなわち、「ギフテッドプラス発達障害」と思っていて、「ギフテッド応援隊」に入会している。月1回ほどのペースでzoomのお茶会をして、「知的に高すぎるがゆえの困りごと」について、そうだそうだと話しあっているという。ほかで、その話をすると、自慢と受け取られたり、いろいろ詮索されたりするから、ママ友に「困りごと」を話せない。

さて、その子は小学校1年で、不登校になった。1年の冬に私がいるNPOのフリースクールにやってきて、2年になって、登校を再開した。今年の3月からは、放デイで私が担当している。可愛い小柄な子で1週間に1度に教えるのを私は楽しみにしている。

1週間に1度 私のもとにくる以外に、学習塾にも通っている。学習塾で出される算数パズルの予習に私のところにくるのである。算数パズルとは、「虫食い算」のように試行錯誤を繰り返せば良いのであって、証明問題のような抽象的思考を要しない。どちらかというと一時メモリーが強ければ、試行錯誤を効率的に繰り返せる。ただ、もっと難しい問題に将来挑戦するときに備えて、思考過程を式や絵に表現することも教えている。

数学はまだ教えていない。そのかわりに、科学の話を好奇心に合わせて広くしている。その子は、温暖化ガスの1つの2酸化炭素ガスが大気中に0.03%あると知っていた。私は、そんなにたくさんあるとは知らなかった。家では元素の話の本を読んでいると言う。金属のような重い原子は、星が重力収縮したとき生成され、爆発して宇宙にばらまかれるのだと、さらに言う。

その子は図鑑を読むが絵本を読まないと言う。父や妹はマンガを読むが、自分は読まないと言う。じゃ、小説を読むのか、と私が言うと「うん」と答える。歴史を読むのか、と言うと「そう」と答える。

私は小学校低学年のとき、童話の本を読むのが好きだったのに、その子と会話しているとき、たまたま、「童話」という言葉が思いつかなかった。

才能は偶然が作った偏りかもしれない。価値観も偏りかもしれない。私は偏りを後押ししたようだ。

私はその子がよくしゃべるので、学校でオピニオンリーダなのかと思ったが、本人の口からは否定された。みんなと意見が違うのだが、自分を抑えて合わせているのだと言う。その子を見ていると、大人にも気遣う。相手の心がわかりすぎる。確かに、私もこの点で親の心配に共感する。脳に不必要な負担をかけている。自己愛が確立していくにあわせて、他人の気持ちがわかればよい。他人の評価が気になり始めると、自己愛の確立がうまくいかない、と私は考えている。