猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

宇野重規や論壇は現在の代議制民主政に危機意識をもって解決を模索すべき

2024-06-28 11:31:37 | 民主主義、共産主義、社会主義

きのうの朝日新聞《論壇時評》に、宇野重規が『分極化で求められる「政治」の力』を書いていたが、表層的で私にとって満足いかないものであった。もう少し、現在の代議制民主政に危機意識をもつべきである。宇野がなさけないのか、論壇がなさけないのか、それとも、両方ともなさけないのか。

日本の選挙の投票率は毎年下がっている。現在、国政選挙の投票率は50%前後である。地方選挙の投票率は40%前後である。自分の代理人を選ぶことに無関心な あるいは あきらめている国民が半分もいるのだ。

今年の4月、手製の銃を作成した若者を千葉県警が逮捕した。彼は銃マニアではない。手製の銃はパイプ銃で、販売されている銃のようなカッコよさはない。彼は、「日本の政治を含め、世の中に失望した。こんな国にした者らを攻撃することを考えていた」と警察に話したという。

今年、政治パーティでの収入を自民党議員が裏金化していることが、明らかになった。しかし、その問題の本質が議論されず、自民党内の権力争いに利用されただけであった。自民党と公明党で国会の過半数を占めているため、政治資金規正法の形式的な一部改正でお茶を濁された。このとき出された内閣不信任案にたいする反対の討論で、岸田文雄首相および自民党議員は「廃止、廃止では、民主政は維持できない、民主政はお金がかかるものだ」と叫んでいた。

なぜ、政治にお金がかかるのかが、問題の本質である。政治にお金がかかるのではなく、選挙にお金がかかるのである。

お金がかかるのは、もともと利害が異なる集団から、国という人間社会が、できているからである。現在の代議制民主政では、政治家がお金のある集団からお金をもらい、それで選挙民を買収し、お金のある集団のための政治をする仕組みになっている。もちろん、選挙のときだけでなく、議会で減税するとか、給付金を出すとか、バラマキもして、国の借金を増やすこともしている。

現在、政治家は職業である。政権党では特に職業として政治家を目指すものが多くなる。元首相の菅義偉がそうである。地方から東京に出てきてブラブラしていた怠け者の菅が、ある日、政治家が日本社会で権力が一番あるのだと気づき政治家になったと、告白していたのを新聞で読んだ記憶がある。

国が利害のある集団からできているとき、すでにお金のある集団(既得権益者)は、自分の利権をいかに守ろうかと真剣に政治を考え、政治家にお金を払う。お金のない集団は政治に無関心か諦めている。お金のある集団とお金のない集団の政治への関りは対称でない。

これでは、議会が国民の代表の集まりとして機能するはずがない。

いま、20世紀初頭のヨーロッパと同じく、日本の代議制民主政は危機を迎えていると私は考える。宇野重規も政治学の論壇もこれを真剣に論じ、問題の解決を模索すべきである。たとえば、選挙期間というものを廃止し、いつでも選挙運動をしてよいとするとか、小選挙区を廃止し、全国1区にするとか、何か方法があると思う。


寝ぼけて池上彰の中国共産党批判を聞く

2022-01-08 23:38:39 | 民主主義、共産主義、社会主義

最近、寝ている時間が増えている。きょうも夕食が終わると寝ていた。

ふっと気づいたとき、池上彰がテレビで、社会主義では人びとは働かなくなり生活はが貧しくなるとしゃべっていた。鄧小平が社会主義市場経済を導入したことで中国経済が発展した。市場経済とは自由にお金儲けをしてよいことだから資本主義である。社会主義資本主義というのはおかしい、と言っていた。

まだ、脳が寝ていたから、社会主義というのがオカシイというのか、資本主義というのがオカシイというのか、わからない。

だが、社会主義だから生活が貧しくなるというのはオカシイという気がする。数学の論理では、真理の命題の対偶は真となる。すなわち、生活が貧しくならないためには社会主義であってはならないということになる。そんなに、社会主義とは悪なのか。

根本的な問題は、社会主義とは国家が市場を管理することだからいけないのか。それとも、一部の人びとが、富を独占することが良いことなのか。他人の幸せを考えてはいけないのか。

社会主義とか共産主義とかいう場合は、社会における人間関係のあり方を言うはずである。市場経済とは経済活動におけるありかたである。しかも、経済学者がつくった理想化された概念である。

たとえば、J. K. ガルブレイスは『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)のなかで、市場経済とは理想化された虚構で、本当は、人間は市場経済社会の中の自由競争で耐えられず、安定を求めてイカサなな仕組みをつくってきた。お金持ちのほうが政治的発言力が強いからお金持ちに都合の良いルールがしかれた。市場経済の名のもとに不公平がまかり通ってきたという。

社会の根本的理念として、社会主義、共産主義に対抗するものとして、自由主義(リベラリズム)がある。そして、自由主義に対抗するものとして、国家主義というものがある。

新型コロナが社会を覆う前に、5年前だと思うが、高校以来あったことのない友達にあって自慢話を2時間ほど聞いた。大学を出た後、NECの開発研究所に務めたという。人に命令されることが嫌いなので、つぎつぎと上司をはめて、どんどん上に上り詰めたという。結局は、大きなビジネスに失敗したので、退職金をたっぷりもらってNECをやめたという。

自慢話だから、すべてが事実とは限らない。しかし、人に命令されるの嫌だというのは本音だろう。だからといって、上司をはめる必要があるのか、は疑問である。人の上にたたないと自由がないのか。

自由主義というのも、現実社会では心もとない理想である。自由主義は富や自由の独占を認めているのだろうか。中国共産党を叩いているだけで、日本社会の現状の肯定しているのでは、イケナイと思う。

私の脳はまだ半分寝ている。


リベラルとは何か、ハト派なのか

2021-10-07 22:27:01 | 民主主義、共産主義、社会主義

岸田文雄は「リベラル」という言葉を使わないが、宏池会系であることで、「リベラル」と見なされることがある。日本の古い世代には、リベラルとハト派と似たひびきがあるようだ。しかし、岸田自身は外交においては安倍路線を引き継ぐようだ。

リベラルとは何であるか、私にはよくわからない。その語を使う人によって意味が変わるからだ。

11年前、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱強熱』がNHKで放映されたとき、リベラルとリバタリアンと違いが分かったような気がした。他人のことも思う自由主義がリベラルで、自分のことをしか思わないのがリバタリアンという説明だったようである。しかし、これがみんなに共有されているわけでもなく、また歴史的な定義でもない。

宇野重規の書評を見て、田中拓道の『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』(中公新書)を読んだが、ますます、わからなくなった。宇野重規自身は田中のこの本を褒めて、「リベラルを切り捨てる前に、ぜひこの本を読んで欲しい」と言っていた。

田中が彼の本で明らかにしていたのは、リベラルがとる政策は、時代と国によって大きく変わるということである。

そこから、私が読み取ったのは、一貫したものとして、リベラルは「共産主義」に反対する立場であることだ。リベラルは私有財産を肯定するのである。リベラルの創始者と言える、ジョン・ロックは、彼の「統治論」で、王や大衆から私有財産を守るために、政府や法が、あるのだと主張している。

ロックをはじめとするリベラルの考え方は、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』にコンパクトにまとめられている。リベラルの考えは、三権分立のように、現在の代議制民主政の基礎となる概念を生んだ。しかし、リベラルは、あくまで、上からみた「気前の良い」福祉国家であり、「反共」や「中間層を増やす」など、私が納得できないものを多く含んでいる。

中間層を増やすのではなく、貧困層を減らすか、富裕層を撲滅するのが筋ではないか。

細かく見ると、ロックは、『統治論』で、「共有」が基本で、「私有財産」を個人の労働の成果として控え目な形で主張している。人間が本当に自分だけの労働の成果と主張できるものが、どれだけ明確にあるか、という問題を念頭において、ロックは書いている。自分だけの成果でなければ、格差が大きいことは、搾取である。人の労働の成果を盗んでいるのである。

岸田の「新しい資本主義」は、「資本主義」というものはどう定義しているのだろうか。なぜ資本主義にこだわるのだろうか。共産主義が、個人のささやかな貯蓄や持ち物を奪い取ると、怯えているのだろうか。「資本」というものが、自由な企業(ビジネスの立ち上げ)の障害になっているではないか。


アメリカは民主主義の国か、宇野重規が投げかけた問い

2021-08-10 23:21:05 | 民主主義、共産主義、社会主義

宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)のなかに、「アメリカは民主主義の国か」という言葉がでてくる。

日本ではバラック・オバマ元大統領が演説の名手と言われている。しかし、彼が日本に来て演説したのを一度テレビでライブで聞いたことがあるが、中身がなく、単にアメリカの「建国の父」の精神をほめているだけである。すなわち、アメリカ人が子どものときに聞かされた逸話を繰り返し、従順な子ども時代の道徳心を刺激して、聴衆を喜ばしているだけである。

宇野は、建国の父たちは特権階級で、民衆が政治に関与することを恐れた、と言う。

《「建国の父」たちは大地主や、弁護士といった知的職業に就く人々がほとんどでした。彼らは、植民地の上層に位置する人々であり、シェイズの反乱のような動きに対してはきわめて警戒的でした。この反乱は貧しい農民中心の反乱で、独立戦争の退役軍人ダニエル・シェイズを指導者とするものです。》

宇野は、アメリカの連邦制は、この貧しい人々が巨大な力をもつことを「建国の父」たちが恐れたゆえに、作られた制度であると言う。「建国の父」たちが、純粋な民主政(pure democracy)と共和政(republic)と対比し、共和政を実現しようとした。純粋な民主政では、多数派(貧乏人)が少数派(自分たち金持ち)の利益を犠牲にすることを恐れたから、と言う。

私は、「共和政」というと、血縁による支配、王制の否定と漠然と思っていたが、共和政(republic)の語源はラテン語の res publicaで「公共の事柄」、すなわち「公共の利益」を考えた政治をすることである、と宇野は言う。すなわち、「公共の利益」を考えることができる名士の集まりが国を統治することである。

「公共の利益」とは何であるか、曖昧であるから、少数派に統治の権力を与えることに、何らの正当性があるわけではない。「国益」を口にする者は一般にウソつきである。「国益」というものが虚構であるからだ。

とにかく、「建国の父」たちは民主主義の国を作ろうと思っていなかったのである。

それから、約80年後、「共和党」出の大統領エイブラハム・リンカーンは「人民の人民のための人民による政治(government of the people, by the people, for the people)」と演説した。この「政治」は「統治」のことである。「人民の政治」とは統治に人民が参加することである。田舎出のリンカーンは、直接民主主義を理想としていたと思われるが、暗殺されておしまいになる。リンカーンが生きていても「人民の人民のための人民による政治」を実現できたか わからない。

これに関係して面白い映画がある。映画『ギャング・オブ・ニューヨーク(Gangs of New York)』である。アイルランド系移民と星条旗に忠誠を誓う貧民たちの抗争である。映画では金持ちが つどう酒場で リンカーンをあざ笑う人形劇がおこなわれている。南北戦争(Civil War)が始まると、志願兵募集に反対するスラム街の暴動に、金持ちの命令で一斉艦砲射撃が行われ、争うアイルランド系移民とアメリカ化した貧民がいっしょに殺されるという物語である。

この映画の脚本家はアメリカに民主主義はないと考えていると思う。

宇野はアレクシ・ド・トクヴィルの見解を紹介している。リンカーンと同時代のアメリカに訪れ、その後『アメリカの民主主義』を出版し、アメリカの人びとの「平等」の精神に、民主主義の未来を見ている。

宇野は現状のアメリカは「民主主義の国」として問題を抱えているが、「平等」の精神にデモクラシーの未来を信じているのである。

[関連ブログ]


デモクラシーの問題、「平等」と「自由」と「同質化」

2021-08-08 23:07:27 | 民主主義、共産主義、社会主義

今年、NPOで20歳過ぎの若者に中学校の公民の教科書の一節を読んでもらい、「自由とは何か」を問うた。彼は「自由気ままのことだ」と答えた。そして、「公民の教科書はもう読みたくない」と言った。

その答えにとまどったが、確かにそうだ。「自由」とは難しいことではない。気ままに、好き勝手に、ふるまうことだ。支配者には「自由」がある。被支配者には「自由」がない。支配者だけが「自由」を独占している。我々にも「自由」をよこせ。「自由平等」というではないか。「平等」がデモクラシーの第1原則なのだ。

宇野重規は平等をデモクラシーの根本に置き、自由とデモクラシーが対立することがあるという。「自由民主主義」というのは本当は安易なネーミングだという。

歴史的には、多数派が個人の自由を奪う危惧がデモクラシーにつきまとった、と宇野は言う。すなわち、近代のいう「自由」とは、あくまで「個人の自由」のことである。デモクラシーを多数決の制度とすると、この危惧があたる。しかし、現代において、大勢の意見が一致することが本当にあるだろうか。個人が確立している限り、私はないと思う。ただ、現代の民主政は代議制にもとづいているので、個人の自由が押しつぶされる可能性がある。選挙で選ばれた議員がいくらでも暴走する可能性があり、それを止める制度がない。党派が議員個人の投票行動を規制してはいけない。

デモクラシーのもつ「平等」が問題というより、現在の代議制の抱える問題と私は思う。

もうひとつの問題は、「平等」が「同質性」と誤解されることにある。「同質性」とは、同じものを食べ、同じ服を着て、同じように感じることを言う。個人の否定である。「平等」は、あれを食べたいという人も、これを食べたいという人も、対等の権利があるということである。すなわち、個人の思いが異なっていても、それでよく、「同質」にする必要がないのである。

学校においても、校則が服装や身なりに「同質性」を求めるのは、管理のしやすさからであって、「平等」の原則とは無縁である。平等の立場からすると、管理するものと管理されるものがいる学校のあり方自体がおかしい。

近代の共同体運動には、ナチスのように、「同質」にしないと共同体が成立しないという思い込みがある。もちろん、「同質」の人びとが集まってもかまわない。しかし、「同質性」を集団の外の個人に強制することには、私は反対する。また、共同体が互いに助け合う集団のことなら、そもそも同質性はその目的に不要な要件である。

[注」ナチス(国民社会主義労働者党)は、権力の把握後、Gleichschaltung ( 同質化)政策を行った。州自治をなくし、政党・労働組合を解体し、社会全体を均質化しようとした。

まとめると、デモクラシーは、人間社会の上下関係、命令する人と命令される人があることの否定である。アナキーなのである。「同質性」を要求することではない。

古代ギリシアでデモクラシーが実現されていたというが、民会に集まっていたのは、農民であり、靴職人であり、大工であり、商人であったのである。多様な職業につく平民であったのだ。

デモクラシーとなると暗愚な大衆が個人の自由を奪う、というのは、妄想であると思う。もし、あなたがその不安が抑えきれないなら、暗愚な大衆を啓蒙すれば良いことであり、デモクラシーを否定する必要はないはずである。

[蛇足]ところで、安倍晋三、菅義偉が国民より教養があるとは思えない。